1 「人がもし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである」ということばは真実です。

2 ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、

3 酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、

4 自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。

5 ―自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう―

6 また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。

7 また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです。

8 執事もまたこういう人でなければなりません。謹厳で、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利をむさぼらず、

9 きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人です。

10 まず審査を受けさせなさい。そして、非難される点がなければ、執事の職につかせなさい。
11 婦人執事も、威厳があり、悪口を言わず、自分を制し、すべてに忠実な人でなければなりません。

12 執事は、ひとりの妻の夫であって、子どもと家庭をよく治める人でなければなりません。

13 というのは、執事の務めをりっぱに果たした人は、良い地歩を占め、また、キリスト・イエスを信じる信仰について強い確信を持つことができるからです。

 

エペソ教会のあるべき姿を示しているこのパウロの手紙の中での、監督職の資格についてのくだりです。

 

教会での監督職と言うと、範囲は広くなると思いますが、対外的に教会を代表するような職だと思います。

教会を代表するというのは大変な事です。ジーザスは神が人の形を取られた事と、時に同じ意味を成してくるからです。つまり教会は、天を人の目に明らかにするようなコミュニティであり、それを代表するのですから。

 

それだけにパウロは、その監督職の資格として外面的な体裁を強調しています。つまり、他人からどのように見えるかという視点に重きを置いているように思えるのです。

 

教会執事の資格についても言及があるのですが、監督職のそれと似ていますが、教会内での審査を受けさせなさいと言うのですから、監督職に比べると、教会外から見える体裁についてはあまり重視されていないように感じます。

 

監督職の資格には、神への信頼性、信仰についての言及が無いのですが、教会の外面を形作るというような重要な役割を担うのですから、それは当然備わっていることが前提でしょう。

 

一方、執事の資格も似たところがありながら、信仰についての成果が最後に言及されます。

これらを包括的に捉えると、監督職というのは、執事が一つのステップのようになってくるのでは、と思いました。

教会外にキリストの香りを漂わせる存在になるためには、まずは教会内で執事として仕えることで確たる信仰に至ってから、というような一つのモデルを指し占めているように見えるのです。監督職に上り詰めるモデルではなく、奉仕者としてのあるべき姿の一つ、です。

 

このことは、パウロだからこそ強調してくるポイントだとも思います。

なぜなら、パウロは福音の拡大を意図する者であり、それがイコール、キリスト教会の拡大と同義であることを知っているからです。

だからこそ、彼の目は、まだジーザスを受け入れていない未信者に向いています。体裁の大事さをここで解くわけです。

 

現代も続くこの教会時代にも、直接的な示唆を与えていると思います。

信仰を土台として、キリスト者は、まだキリストを信じていない人から見ても品行方正で評判よくあるべきだということです。これは、あくまで私の観点です。

 

日本での伝道活動ですぐに直面するのは、これに関する事です。

ジーザスを信じない人、宗教だと言ってはばかる人の方が、相対的に「まとも」だと思われていることです。

しばらくしたら日本に戻りますが、神の御心は、その「まとも」を超えていけ、だと思います。

評判良く、そしりを受けないように。それが目的となってしまっては偶像礼拝そのものですから、だからこそ固く立っていることが重要だということです。

 

とても示唆に富むみことばでした。私は天の代表としてこの世にいること、ジーザスの役割を担う一人されていることを命じて、今日を始めたいと思います。