1 そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。

2 それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。

3 そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。

4 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。

5 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。

6 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。

7 そのあかしのために、私は宣伝者また使徒に任じられ―私は真実を言っており、うそは言いません―信仰と真理を異邦人に教える教師とされました。

8 ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。

9 同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく、

10 むしろ、神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行いを自分の飾りと
しなさい。

11 女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。

12 私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。

13 アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。

14 また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。

15 しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。

 

昨今は、性別について、「無い」とするのが正義のように言われることさえあるのですが、それに真っ向から反論するかのようなパウロの言葉がここにあります。

明確に男は、、、女は、、、と言う風に語られています。

 

現実的には、おそらくこの時代においても、いわゆるゲイとかレズビアンとか言われるような、身体的な性別と心の性別が一致しない人はいただろうと思われます。

その人はどういう位置づけなんだ、ということになりそうですが、私の考えでは「心の方の性」で捉えればよいと思います。

神は心を見られる、とあるからです。

 

キリスト教会の中には、そのような人たちのことを寄せ付けないようなスタンスがあるのですが、神が全ての人を愛されている以上、それは信仰者の応答としてどうかと思います。

これはチャレンジです。パウロは4節で明言しています。

「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」

すべて、にはゲイとレズビアンは含まれないと言うのでしょうか。

 

奴隷が当然とされた時代に、黒人さんの奴隷を人間扱いせずに、教会堂への立ち入りすら禁じた時代がありました。あの罪を繰り返してはいけないと思います。

もちろん、ゲイもレズビアンも、それだから素晴らしいというような風潮に飲まれるのはよくありません。

何よりまずは、そうではない男も女も、そういう人たちも、同じ罪人であることをまずは覚えて、共に赦されることを信仰によって選び、赦される道を歩いて召される教会であるべきでは、と思うのです。

 

私は今日のパウロによる、男は・・・女は・・・というはっきりとした性別上の差異もそのまま受け取るべきだと考えます。

 

この中では特に、女がしてはいけないこと、について述べられるのですが、なんとパウロは、女が教えたり男を支配することを許さない、と言うのです。

 

では、女性が教師になることがだめなのでしょうか。女性教師のクラスで男子生徒が教えられることがだめなのでしょうか。そういうことではないでしょうね。

 

そういう状況、女だからという理由で教えたりとかするようになれば、女だからという理由で男を支配するようになるような傾向を咎めているのだと思います。

 

では、逆なら良いのか。男が女を支配するようになるのは良いのか、ということですが、正直、パウロはそれを言っていると思います。

理由は、エバという罪の根本をあげて、女の方が邪悪なものに騙されやすい傾向があるからです。このことも、妙なジェンダーレス観でうやむやに受け止めてはいけないと思います。

 

ただ、私が思う事は、そもそもそのようなリスクをも内在させて創造された神の意図を、しっかりと汲みとるべき、ということです。

そして、女が・・・をしてはいけない、すべきである・・・ということの遥か以前の前提として、男があるべき姿をまずは示さなければいけません。そうすれば、女がそのようなことを”せずに済む”というのが私の捉え方です。

男がしっかりと主導し、信仰に根差して歩まなければならないという導きになります。女が問題ではないのです。アダムがエバにへびと会話をみすみす許した、そのリスクが問題です。そのアダムのリーダーシップが問題です。

 

男の役割、女の役割、という仕分けは、あまり容易にすべきではないとも思います。

あくまでパウロはエペソ教会をどう指導するかというテモテへの指南書としての手紙でこれを言っているのです。つまり、これは霊的アプローチで迫らなければならない事です。

女性教師は罪ではありませんし、女性社長もかかあ天下もまあいいと思います。問題なのは、霊的なリーダーシップまでも男が女に明け渡してのうのうとすることです。

 

私は参加していないのですが、映像で見て感銘を受けたミニストリーがあります。

米国のプロミスキーパーズです。

大学アメフト全米王者のヘッドコーチがリーダーシップを取って、世界を変えるには男が変わらなければならないというテーゼを持って始められた男ミニストリーです。

 

内容は、男の悔い改め集会です。大勢の男たちが集まって悔い改めるのですが、ゴツイ男がひざをついて涙を流している姿が印象的でした。

 

男は強くなければならない、男が主導しなければならない、というのは、ただ暴力的で強引な人間になるべきというのではなく、神の前で明確に悔い改めて、その生き方とか考え方の変化を率先して示していくことだと私は思います。神と共に歩く姿を可視化させると言ってもよいと思います。

 

他人のことについてあれは罪でこれは罪ではないとか、男の方が”偉い”んだから女は黙ってろとか、そういう自分を安全地帯とか心地よいポジションに置くことに躍起なることではありません。

男がまずは率先して神に駆け寄ること。悔い改めによって神の必要を明確にすること。これが全ての解決法の基本であり、健全なのだと思います。

 

今日のみことばからは、自分の状況に問題があることが映し出されました。

それは家内との関係ですが、最近はじめた伝道ミニストリーは、家内が経験者であることからリーダーシップを取っているのですが、これは、私がやるべきだということです。

そうすれば、福音がもっと伝わるようになるはずです。

 

立ち返るべきところがあります。伝道のために生きる人生は、きっと祝福されるということです。全ての解決がそこにあります。これをしっかり家内と共有して、活動していきたいと思います。