アサフの賛歌

1 神よ。国々は、ご自身のものである地に侵入し、あなたの聖なる宮をけがし、エルサレムを廃墟としました。

2 彼らは、あなたのしもべたちのしかばねを空の鳥のえじきとし、あなたの聖徒たちの肉を野の獣に与え、

3 聖徒たちの血を、エルサレムの回りに、水のように注ぎ出しました。彼らを葬る者もいません。

4 私たちは隣人のそしりとなり、回りの者のあざけりとなり、笑いぐさとなりました。

5 主よ。いつまででしょうか。あなたは、いつまでもお怒りなのでしょうか。いつまで、あなたのねたみは火のように燃えるのでしょうか。

6 どうか、あなたを知らない国々に、御名を呼び求めない王国の上に、あなたの激しい憤りを注ぎ出してください

7 彼らはヤコブを食い尽くし、その住む所を荒らしたからです。

8 先祖たちの咎を、私たちのものとして、思い出さないでください。あなたのあわれみが、すみやかに、私たちを迎えますように。私たちは、ひどくおとしめられていますから。

9 私たちの救いの神よ。御名の栄光のために、私たちを助けてください。御名のために、私たちを救い出し、私たちの罪をお赦しください。

10 なぜ、国々は、「彼らの神はどこにいるのか」と言うのでしょう。あなたのしもべたちの、流された血の復讐が、私たちの目の前で、国々に思い知らされますように。

11 捕らわれ人のうめきが御前に届きますように。あなたの偉大な力によって、死に定められた人々を生きながらえさせてください。

12 主よ。あなたをそしった、そのそしりの七倍を、私たちの隣人らの胸に返してください。

13 そうすれば、あなたの民、あなたの牧場の羊である私たちは、とこしえまでも、あなたに感謝し、代々限りなくあなたの誉れを語り告げましょう。

 

神を信じることにおいては、危機的状況がむしろ好都合になる場合があると私は思っています。

 

実際、自分がジーザスを信じるようになったのは、もうそれしか道が無いと考えたからです。

思い返せば、自分の仕事とか生活とか、それらを回復させたり更に良いものにしたりするためだけなら、ジーザスを信じる以外の方法でも成すことができたはずです。

 

しかしそこはもう、人生そのものとか、生きている意味ではあるとか、そういう自分では何ともできない部分を動かす「手」の必要性を咄嗟に感じたのです。

 

神を信じるとは、ジーザスを信じるとは、貧乏から救い出されるマジックでもなく、金持ちになるマジックでもなく、人生そのものとか、霊的意味合いでの完全な回復であるということです。

 

アサフの賛歌に歌われているこの内容は、おそらくイスラエルが壊滅状態に追いやられ、もう自分たちの手では回復出来ず、外国の手におちていくという状況であったものと思われます。

このようにな状況に至ったのは、イスラエル王国が偶像礼拝に傾倒し続けてきてしまったという神への背信がありました。

 

そのまさに、外国から攻められている時代の人たちにとっては、どうしようもないことなのです。

自分たちの罪というより、過去からの流れによる避けがたいものがありました。

 

そのような状況をしてはじめて、自分の痛みを取り去られたり、生活が回復されたりではなく、イスラエルの回復と神の回復を願うようにとみちびかれたのだと思います。

実際には神は回復されるようなお方ではなく、この歌を歌っている者が神への回復の途にあるのです。

 

今日のみことばから私が受け取ることは、今、自分が平安であることへの一抹の不安です。

それは、逃亡中にダビデが感じていたような神から来る平安ではなく、生活そのものが平安であるということです。

こういう時にこそ、何が何でも神に向かう必要があると思います。

霊的には、危機的状況の方が健全であることが出来るということがよくわかります。

そういう意味では、今の自分は不健全の危機のようなものです。