指揮者のために。エドトンの調べによって。アサフの賛歌

1 私は神に向かい声をあげて、叫ぶ。私が神に向かって声をあげると、神は聞かれる。

2 苦難の日に、私は主を尋ね求め、夜には、たゆむことなく手を差し伸ばしたが、私のたましいは慰めを拒んだ

3 私は神を思い起こして嘆き、思いを潜めて、私の霊は衰え果てる。セラ

4 あなたは、私のまぶたを閉じさせない。私の心は乱れて、もの言うこともできない。

5 私は、昔の日々、遠い昔の年々を思い返した。

6 夜には私の歌を思い起こし、自分の心と語り合い、私の霊は探り求める。

7 「主は、いつまでも拒まれるのだろうか。もう決して愛してくださらないのだろうか。

8 主の恵みは、永久に絶たれたのだろうか。約束は、代々に至るまで、果たされないのだろうか。

9 神は、いつくしみを忘れたのだろうか。もしや、怒ってあわれみを閉じてしまわれたのだろうか。」セラ

 

中学生の頃、1980年代ですが、米国代表の陸上チームが取り入れているイメージトレーニングの講習を受けたことがあります。

自分で自分に催眠をかけるような、いわゆる自己暗示の類ですが、これ、それからの私の人生で重宝することになりました。

 

実際に何度か経験したのは、痛みのコントロールです。

大学の卒業式の前の夜、私は同級生の家に泊まっていたのですが、急に治療中の虫歯が痛み出しました。その時、咄嗟にあのトレーニングを思い出して実行したところ痛みが止まりました。

それ以外にも、肩を脱臼した時、頭痛などなどで同じ経験があります。

 

イメージトレーニングは、そのような痛みなどの脳の機能、精神に関するもので、自分で自分をコントロールすることに役立つものではあると思います。

しかし、命は救いません。

 

神の力は、命に関することであり、永遠のいのちを与える力です。

聖書が語るのは、神は、いのちを創造されるという、いのちの根拠でいらっしゃるということですから、それを与えることがお出来になるのは当然と言えば当然です。

 

私はまだ、あまりその神とのつながりにおいて、経験に乏しいところがありますから、アサフのこの賛歌から完全な共感を得ることが出来ないのですが・・・・

祈っているのに、その神からの慰めを拒むことがあるということです。

そして、自分にどんどん向かって行ってしまうのだと。

そこで私はイメージトレーニングの事を思い出したわけです。

例えば自分なら、祈りをあきらめて、イメトレしてしまうということか、と。

 

イメトレではなくとも、鎮痛剤を飲めば歯痛や頭痛は和らぎます。

医者に行けば、虫歯は治してくれますし、頭痛の原因もわかるでしょうから、その治療もしてくれるはずです。

しかし、どれもこれも、いのちは与えません。

 

今日のみことばからは、自分が何に祈っているかをわきまえなさい、という教えがありました。

それは、何に向き合うか、ということでもあります。

 

自分に向き合っても、医者に向き合っても、それはその時々の必要に応じてよいと思うのですが、本当に必要な解決はどこかを考えると、向き合うべきはまず神、ジーザスです。

いのちを与えられる、というのは、ただその能から来るのではなく、与えようとする御心、つまり愛から来るのですから。その愛に頼るということです。

そこに根差して、もう一度祈っていきたいと思います。