22 もし敵意もなく人を突き、あるいは悪意なしに何か物を投げつけ、

23 または気がつかないで、人を死なせるほどの石を人の上に落とし、それによって死なせた場合、しかもその人が自分の敵でもなく、傷つけようとしたのでもなければ、

24 会衆は、打ち殺した者と、その血を復讐する者との間を、これらのおきてに基づいてさばかなければならない。

25 会衆は、その殺人者を、血の復讐をする者の手から救い出し、会衆は彼を、逃げ込んだそののがれの町に返してやらなければならない。彼は、聖なる油をそそがれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければならない。

26 もし、その殺人者が、自分が逃げ込んだのがれの町の境界から出て行き、

27 血の復讐をする者がそののがれの町の境界の外で彼を見つけて、その殺人者を殺しても、彼に血を流した罪はない。

28 その者は、大祭司が死ぬまでは、そののがれの町に住んでいなければならないからである。大祭司の死後には、その殺人者は、自分の所有地に帰ることができる。

29 これらのことは、あなたがたが住みつくすべての所で、代々にわたり、あなたがたのさばきのおきてとなる。

30 もしだれかが人を殺したなら、証人の証言によってその殺人者を、殺さなければならない。しかし、ただひとりの証人の証言だけでは、死刑にするには十分でない。

31 あなたがたは、死刑に当たる悪を行った殺人者のいのちのために贖い金を受け取ってはならない。彼は必ず殺されなければならない。

32 のがれの町に逃げ込んだ者のために、贖い金を受け取り、祭司が死ぬ前に、国に帰らせて住まわせてはならない。

33 あなたがたは、自分たちのいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。土地に流された血についてその土地を贖うには、その土地に血を流させた者の血による以外はない。

34 あなたがたは、自分たちの住む土地、すなわち、わたし自身がそのうちに宿る土地を汚してはならない。主であるわたしが、イスラエル人の真ん中に宿るからである。

 

殺人事件というものは、年がら年中発生します。

毎日、毎日、来る日も来る日も。

私は51歳ですが、何歳の頃かに「ニュース」の存在を認識してからこれまで、殺人事件の報が無かった日は無いんじゃないか、と思うほど発生します。

しかもそれは、明るみになったものだけが報じられているのですから、治安が良いと言われる日本でも、殺人事件は日常茶飯事と言えます。

 

当時のイスラエルの群れの規模は、ざっと日本全体の100分の1程ですが、それなりな頻度で発生していた可能性はあります。

 

今日のみことばからも、いくつかのフックがあるのですが、まず、”会衆”が殺人罪の裁きと刑の執行を任じられているところです。

風習としてそうであったとも言えますが、神は、「わたしのところに連れてこい、わたしが全てやる」とされるのではなく、人間が人間を裁いて、その裁きに応じた刑執行をもせよ、と言われているのだと私は受け取りました。

 

神は、オートマチックに全てをやってくださる人間にとってスーパーマルチな便利屋さんではないということです。

このことは、神を理解していくにあたって、おさえておくべきところだと思いました。

人間には多くを委ねておられるということです。

 

次に、過失致死で人を死なせ場合に、その過失者が逃げ込むのがれの町について、更に詳しく説明されていることです。

 

過失致死や致傷というのは、思いのほか発生件数は多いものです。

現代で言えば、工事現場や日常の交通においても発生します。

また、故意の殺人であったとしても、過失致死とされているケースもあるんじゃないですかね。

未必の故意の有無が問われていることも、わりと耳にするように思います。

 

故意の殺人は死刑確定です。一方、故意かどうかわからなくても(死亡事故であったとしても)、死んだ人の親族がその死なせた者を復讐として殺害することが許されていたのですから、のがれの町に隔離される必要があるわけです。

 

ううん、と考えさせられる、なんとも読み切れない神のご意思があるのですが、33節は一つヒントになりそうです。

 

土地に血が流されることを、神は防ごうとされている。

故意の殺人は死刑という重刑によって事件の発生を防ぐ。

復讐を許可しながらも、のがれの町を備えることによって、復讐による殺人を防ぐ。

復讐による殺人を許可することによって、過失致死に至らないような注意を喚起する。

人が人に関連して死を招くこと、殺害し合うようなことを防ごうとされているのでは、と、私は思いました。

 

イスラエルはカナンの地を相続しますが、それは賃貸に近いのかも知れません。

主は、その土地、全地の権利者・支配者であられると明言されています。

これは、カナン以外の世界も、今も同じではないでしょうか。

私たちは、その支配の上で、裁きも刑の執行も、ただ”委ねられている”のだということを思い出さなければならないのです。

 

それは、人を治めることを、神がお出来にならないからではありません。

会社の上司は、部下の成長のために、あえて自分でできる仕事を部下にまかせることがあります。よくあります。

また、その部下が、どのように仕事をするのか、その時点での能力を見極めるためでもあります。

支配者であられる神によるこの人間の統治の人への委託、つまり自治は、人間全体での成長と見極めのためのもの。そんな風に捉えていても良いように思いました。

 

このことは、人にとっては安心すべきことであるとも思います。

今日のみことばからの実践、というか、最も迫られるものはここです。

神はその完璧な正しさによって、間違いのないやり方を与えてくださって、そして委ねてくださっているということです。

ですから、私自身は、その神を信じているということ、聖霊を下してくださっているということを絶対的な基盤として、そこから出て来る良心に従ってやること成すことにおいては、何も心配する必要など無い、ということです。hallelujah

主は、委ねて放っておかれているのではなく、霊的イスラエル人と言える私の真ん中にちゃんと宿っておられますから、思い切って、心配などすることなく、救いを確信して生きたいと思います。

ちょっとみことばから飛びすぎですが、とにかくパワーありますね。