クリスチャンになってから13年が経過しましたが、その中で気づかされることは、自分は根本的にとんでもなく汚い者だということです。
キリストにあって赦されると聖書は語り、その通りに私は信じて罪の赦しを受け取っています。
ですから、それそのものはそれ以上何もすることができないわけです。罪に対して、赦されないのが普通なのに、赦し以上の良い事などありません。
ただし、それで私自身が現状、美しい者となっているのかについては、自分自身を大いに疑っています。
私は、ここでは言えないようなことをやってきた者です。
それでも赦されると言うのですから、物事の道理にかなっていないことが起きているのはわかっています。
このようなことを突然記す気になったのは、ある出来事が思い出されたからです。
それは、自分が高校生の頃の話です。ある同じクラスの女子Aの私物を、私は破壊してしまいました。
友人らがいてる中で、如何に自分が邪悪で危険な人物かを主張して、恐れられたかったのだと思います。
部活が終わり、何人かで荷物のある教室に戻ると、その女子Aらはもう学校にいなくなっていました。
同じ部活の友人ら皆と、そのAの見てくれについて、馬鹿にしながら笑い合っていました。
そのような中で、私はその「犯行」に及んだのです。
実際に、何かいじめのような行為をしていたというわけではないのですが、どこか、いじめのような心はもっていました。
そして、調子に乗ってしまいました。
翌日、ある別の女子B私がやったことについて糾弾してきました。
「やったのはあんただろう」と迫られたのです。
誰かが、私のその「犯行」を、彼女らに知らせたのかも知れません。
ところが私は悪びれることもなく「もしおれがやったと言うなら、証拠でも見せろや」と言って、逆ギレしたのです。
そして、そう言ってきたBに対して、更に色々と悪態をついたような記憶があります。
それから、その日だったかどうか覚えていないのですが、なんと女子A本人が涙しながら私に謝罪してきたのです。
私が、本当に汚いと思うところはここにあります。
そういう調子に乗った破壊行為も、逆ギレも、若気の至りとか未熟さということではまだあり得なくもないかな、と思います。
しかし、どういうわけか謝罪してきたAに対して、何の正直さも、何の反省もなく、良心の呵責、自分の汚さを感じもしなかった自分に、今更ながらですが、なんて卑怯なやつだと思うのです。
自分の悪事が見つからなかったこととか、その時点では罰されなかったことへの安堵で、もう一杯になって満足していたんです
あの時、たとえ私が正直に話をしなくとも、せめて心の中で、Aに対しての申し訳ない気持ちでも湧き上がっていればまだましだと思うのですが、残念なことにそういう「気持ち」さえも持ち合わせなかったのです。
救いようがない、とは、このことです。
考えてみると、あの時Aはどうして私に謝罪しようと思ったのでしょうか。
自分考えとか、Bとの話合いだけではなく、何か、私が全く関知していない傷をもって、私に向かってきたのだと思います。
こういう自分の汚さをあげていけば、まだまだいくらでも出てきます。
クリスチャンになった今も、怖くて一つ一つを検証することが出来ないほどですが、その汚さを今もまだ持っていることを一種の熱感でわかるのです。
罪は赦されます。
神の目に、この汚い私から出た罪は、なんと赦されます。
しかし、ダビデがそうであったように、この世で生きる上での刈り取りだけは、自分でやらなければなりません。というか、それが必然なのです。これが自業自得です。
既に、あれはあの刈り取りだったんだなあ、と思うことがいくつもあります。
私が今、ベストでありたいなら、その刈り取りであっただろうことや、これから起きる思い通りにいかないような現実を、自己憐憫で受け止めるのではなく、ただ自分に返ったものとして受け入れて、神に救いを求め続ける以外は無いように思います。
私は世に対して、私自身に対して一生誇るものなど無いことを覚悟しなければならないと思います。
それでいいのです。それがベストであることがわかってきます。
いくつか思い出せる、Aさんの私物を壊したような出来事、あの時しっかりと謝罪しておくべきだったということについて、何がなんでも連絡先を探し出して、今更ながら謝罪するのが良いのか。
これは、祈り求める必要があるように思います。
もし、自分が謝罪される側なら、なんだかおかしな事のようにも思うからです。
または、神のみちびきによって、そのような機会が与えられるかも知れない、という考えもあります。
虫の良い話ですが、正直、そちらを望みます。
今日、どういうわけか、そんな思いがいっきに溢れて来まして、それを思うと、こんな自分を神はよくぞここまで祝福してくださっているなあ、という、驚きがあります。
私の場合、神を選択するというよりも、神以外、私をまともに生かされるものは無かった、選択肢など無かったのだと、あらためて思います。
人として最低であることを自覚しながらも、神にあっては人の中でも最上であらせられるという、なんともばつの悪い状況をして私ははじめて、神を信じ続けることが出来るのかも知れません。
もしそうであるなら、それは感謝以外ないのです。