31 そのとき、主がバラムの目のおおいを除かれたので、彼は主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見た。彼はひざまずき、伏し拝んだ。

32 主の使いは彼に言った。「なぜ、あなたは、あなたのろばを三度も打ったのか。敵対して出て来たのはわたしだったのだ。あなたの道がわたしとは反対に向いていたからだ

33 ろばはわたしを見て、三度もわたしから身を巡らしたのだ。もしかして、ろばがわたしから身を巡らしていなかったなら、わたしは今もう、あなたを殺しており、ろばを生かしておいたことだろう。」

34 バラムは主の使いに申し上げた。「私は罪を犯しました。私はあなたが私をとどめようと道に立ちふさがっておられたのを知りませんでした。今、もし、あなたがのお気に召さなければ、私は引き返します。」

35 主の使いはバラムに言った。「この人たちといっしょに行け。だが、わたしがあなたに告げることばだけを告げよ。」そこでバラムはバラクのつかさたちといっしょに行った。

36 バラクはバラムが来たことを聞いて、彼を迎えに、国境の端にあるアルノンの国境のイル・モアブまで出て来た。

37 そしてバラクはバラムに言った。「私はあなたを迎えるために、わざわざ使いを送ったではありませんか。なぜ、すぐ私のところに来てくださらなかったのですか。ほんとうに私にはあなたを手厚くもてなすことができないのでしょうか。」

38 バラムはバラクに言った。「ご覧なさい。私は今あなたのところに来ているではありませんか。私に何が言えるでしょう。神が私の口に置かれることば、それを私は語らなければなりません。」

39 こうしてバラムはバラクといっしょに出て行って、キルヤテ・フツォテに来た。

40 バラクは牛と羊をいけにえとしてささげ、それをバラムおよび彼とともにいたつかさたちにも配った。

 

ロバには見えていて、バラムには見えていなかったもの。

そういうことですね。

 

昨日、家内との祈りの時間に聖書の話をしていたのですが、私が考えているあることに対して「それは間違っている」とされる状況がありました。

彼女は若い頃から宣教団体に所属しており、そこで教えられていることによって神とは何か、聖書が語っているものは何かを理解しています。

それは正統なものであるはずです。

 

私には”思い描き”がありまして、神はこのように思われていたではないか、ジーザスはこういうことを意図したのではないか、という事を常に想像しながら読み進める癖があるんです。そして、その感じ方によって何を求めておられるか、指図されておられるかも”汲みとる”というような、そういう読み方です。

 

その”思い描き”について話をしたところ、解釈として違うという否定をされたので、なんだかそれ以上は話が出来なくなりました。

それからお祈りはしましたが、なんだかぎこちなくなり、心にしこりを残しているような状態です。

 

バラムが進んだところは、神がおられるのにおられない、として進んだ道であるように思います。

そして、おられる、ということ、その道が間違いであるということを、忠実なロバを通じて伝えられたのだと思います。

 

私のその”思い描き”について、それが間違っているから、神がそのようにして家内を通じて話されたのでないか。認めて改めるべきではないか、そう思うのです。

 

思い描くことをやめようと思います。

なんだか急に、神が遠くに感じられて悲しい気がするのですが、それが正しいのでしょう。聖書が言うみことばをそのままを受け取っていくということは正しいです。

 

み使いは「行くがよい」と言われたのですが、バラムは本当に行ってしまいました。

こうならないようにと、根本的な神や聖書への向かい方を躾けられているようです。