22 こうしてイスラエル人の全会衆は、カデシュから旅立ってホル山に着いた。
23 主は、エドムのくいの領土にあるホル山で、モーセとアロンに告げて仰せられた。
24 「アロンは民に加えられる。しかし彼は、わたしがイスラエル人に与えた地に入ることはできない。それはメリバの水のことで、あなたがたがわたしの命令に逆らったからである。
25 あなたはアロンと、その子エルアザルを連れてホル山に登れ。
26 アロンにその衣服を脱がせ、これをその子エルアザルに着せよ。アロンは先祖の民に加えられ、そこで死ぬ。」
27 モーセは、主が命じられたとおりに行った。全会衆の見ている前で、彼らはホル山に登って行った。
28 モーセはアロンにその衣服を脱がせ、それをその子エルアザルに着せた。そしてアロンはその山の頂で死んだ。モーセとエルアザルが山から降りて来たとき、
29 全会衆はアロンが息絶えたのを知った。そのためイスラエルの全家は三十日の間、アロンのために泣き悲しんだ。
このアロンの死については、多くが語られていないのですが、理由は明確にされています。
水の件で、岩に”命じる”のではなく岩を”打った”からです。
さて、ここで神の正義がいかに人が考るものと違うのか、レビ族への取り扱いの違いなのかも知れませんが、そういう”違い”があらわれていると思いました。
岩を打ったのはモーセです。しかし、はじめに死ぬことになったのはアロンだったということです。
その違いが何なのかについて、あまり深く考えすぎない方がよいとは思うのですが、連帯責任なのか?、くらいが私から出て来る精一杯です。
既に神は律法にて示されていることで、それを私が知らないだけなのかも知れませんし。ただ、違うんだな、ということだけがわかるものです。
そして、アロンはことについて、つまり、自らの死について、何ら悲しみも不平も語っていないように思われます。
すでに死への覚悟があったのだとしても、それが実際に訪れる時、だいたいの人は正気を保つことも難しいように思うのです。
しかし、アロンは粛々と神の言に従い、モーセもまたそれを進めました。そこから、彼らが素晴らしい信仰者であったことがわかります。
この記録をただ読んでいるだけの私にとっても、この状況は悲しいものです。
ミリアムが死に、アロンもこうして死に、身勝手にカナンを目指した民たちが大勢死に、モーセらに反旗の者たちも悲惨な死を遂げています。
そこにあるものは、神の超厳格さの現れであるのだなあ、と感じずにはいられないのですが、それにしても何かのしんどさがあるのです。
もう約束の地はすぐそこなのですから。
しかし、悲しみに満ちていただろうモーセとアロンが、こうして粛々と従った姿から、何かをつかみとるべきだと思いました。
モーセは、前は、民が全て罰せられないようにとりなしたのですが、今回、兄弟のアロンの死についてはそうしませんでした。
アロンは抵抗することもなく大祭司の着衣を取って死を迎えました。
ただ「従った」ということです。あのアブラハムのアドナイイルエを思い出すのですが、この時アロンもまたただ神を信じたのかも知れません。レビ族が受けるのは神ご自身でありますから。
私が興味あるのは、アロンは死んでからどうなったか、どうなるか、ということです。
黙示録には、既に天で席が与えられている長老さんのような立場の人がいますが、そこに入っているか、または、先に復活する信徒らの中にいるのか。
神は、「民に加えられる」「先祖の民に加えられ」と言われていますから、死によって下に落とされることはないはずです。
アロン自身もきっとわかっていたことでしょう。だから、私もまたその神を信じる心を保ち続けることが大事で、この世での最期には静かに死を受け入れることが出来るようにありたいと思います。
それがゴールではありませんが、大事な通過点です。