1 レビの子ケハテの子であるイツハルの子コラは、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、

2 会衆の上に立つ人たちで、会合を選び出された名のある者たち二百五十人のイスラエル人とともに、モーセに立ち向かった。

3 彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らい、彼らに言った。「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか。」

4 モーセはこれを聞いてひれ伏した。

5 それから、コラとそのすべての仲間とに告げて言った。「あしたの朝、主は、だれがご自分のものか、だれが聖なるものかをお示しになり、その者をご自分に近づけられる。主は、ご自分が選ぶ者をご自分に近づけられるのだ。

6 こうしなさい。コラとその仲間のすべてよ。あなたがたは火皿を取り、

7 あす、主の前でその中に火を入れ、その上に香を盛りなさい。主がお選びになるその人が聖なるものである。レビの子たちよ。あなたがたが分を越えているのだ。」

8 モーセはさらにコラに言った。「レビの子たちよ。よく聞きなさい。

9 イスラエルの神が、あなたがたを、イスラエルの会衆から分けて、主の幕屋の奉仕をするために、また会衆の前に立って彼らに仕えるために、みもとに近づけてくださったのだ。あなたがたには、これに不足があるのか。

10 こうしてあなたとあなたの同族であるレビ族全部を、あなたといっしょに近づけてくださったのだ。それなのに、あなたがたは祭司の職まで要求するのか。

11 それだから、あなたとあなたの仲間のすべては、一つになって主に逆らっているのだ。アロンが何だからといって、彼に対して不平を言うのか。」

 

レビ族内での紛争がコラによってもたらされているように見えます。

コラが言っている事は「えらそうにすんなよ」に近いものではないでしょうか。

ここにヤコブの長子ルベンから出たルベン族ダタンらを伴わせていることも、コラに何か大きな勘違いが起きていることを物語っていると思います。

 

私には心当たりがあります。

大学生の頃、とある部活動に熱心であったのですが、私はかなり向上心が強い方で、いわゆる出稽古に出向く方でした。先輩やコーチからの教えでは、伸びない、と判断していたのです。

すると、勇気を出して飛び出してみた外の世界、レベルの高いチームに加わっての練習は、まさに向上の機会でした。色々な事を教えてもらいましたし、有名選手と知り合いになったりもしました。

ここまでは良かったと思いますが、私は自分のチームでの練習を軽視するようになってしまったのです。

そのうち、自分のプレイの根拠がおかしくなっていました。チームが勝利するためではなく、自分が目立つためとか、次のステージで有力チームから引き抜かれるため、或いは、出稽古で出向いた先のチームに認められるためですらありました。

本当にこれは、”分を越えた”メンタリティであったと思います。

貪欲に向上を求める選手から、一定レベルで満足する鼻持ちならないやつになっていました。

 

コラがそのような、権威の装いをルベン族に求めながらモーセに「えらそうにすんなよ」というような態度で迫ったのに対して、モーセはひれ伏しています。

これは対照的な姿だなと思います。コラはレビ族に命じられた神の御心を無視する一方で、モーセは神に向かいました。神こそがレビ族、いやイスラエルの本質です。

 

どうしてこんな事になってのだろうなあ、と考えたのですが、私は”神の淘汰”が始まっているのだろうと思いました。

既に神からは「大人は全員が死ぬ」40年の旅が宣言された後です。

死ぬことが決まっているなら、好きなようにやってやろうじゃないか、という風な考えが沸々とし出していたのではないかと思います。その一つがここに現れたわけです。

 

「おおだったら戦ってやるぜ」とばかりに勝手にアマレク人に挑戦した人たちは既に全滅してしましたが、コラにあったものは「どうせ殺されるなら、神無き者として生きよう」に近いものであり、あの挑戦に似てるなと思います。

 

これが、神からのチャレンジでありご計画であることをよくよく知っておかないと、です。

私にはこの世界での生き方が今見えるもの全てですから、見えるものから判断して自分の限界点=死期を見積もると、それまでに楽しい事を出来るだけやって・・・という動きになってしまいそうです。

 

しかし、そうではありません。ただ、ジーザスを信じること、それが神を信じること。

人生の有限性にゆだねて欲を貪るのではなく、信じることで永遠のいのちが与えられると言われているのですから、そっちの方がよいに決まっているでしょう。神にゆだねることが大事ということです。

 

福音を知ったのに信じなかった者、神を軽視した者、信じたのに信じなくなった者も、そのままでは、欲を貪って生きた挙句、永遠の滅びに至ります。これは、淘汰だと私は思います。

ジーザスは福音を伝えることを命令なさっていますが、それを信じるかどうかについては、あくまでも伝えられた本人の選択になさっています。信じなければ淘汰されるのです。淘汰されたくなければ信じてください。

 

今日のみことばからは、私はあきらめないこと、を行動指針にしたいと思いました。

コラにあったものは、あきらめから来る不信仰だったと感じるからです。

これ、すごく共感するんですよ実のところは。

もう自分のお先が暗いとわかったら、何とかその暗さの中でのベストを!と願うものですが、それは神無きベストになりがちです。なぜなら、神に絶望しているからです。

 

しかし、聖書が語る通り、最悪の状況にあっても、まるで神などいないと思えるような事態にあっても、神はおられます。

あきらめる、というものは、この創造主であられる神においては無関係の言葉です。

助けを求める、赦しを求める、改善を求める、その質までも神はコントロールされているはずです。

事態が最悪であるのは、いよいよ神を求めるしかなくなっているという最良の高純度の信仰がもたらされる機会ということです。

 

私は今、最悪ではありません。

しかし、一日のうちにも瞬時瞬時に起きる「まじで!?」に対しても、神からの救いを求めていくことを大事にしたいと思います。

コラの事を考えると、あきらめは罪が始まるところでもあり行きつくところでもあります。神にはあきらめが無いことを覚えて過ごす一日にしたいと思います。