32 イスラエル人が荒野にいたとき、安息日に、たきぎを集めている男を見つけた。

33 たきぎを集めているのを見つけた者たちは、その者をモーセとアロンおよび全会衆のところに連れて来た。

34 しかし彼をどうすべきか、はっきりと示されていなかったので、その者を監禁しておいた。

35 すると、主はモーセに言われた。「この者は必ず殺されなければならない。全会衆は宿営の外で、彼を石で打ち殺さなければならない。」

36 そこで、主がモーセに命じられたように、全会衆はその者を宿営の外に連れ出し、彼を石で打ち殺した。

37 主はモーセに告げて仰せられた。

38 「イスラエル人に告げて、彼らが代々にわたり、着物のすその四隅にふさを作り、その隅のふさに青いひもをつけるように言え。

39 そのふさはあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、主のすべての命令を思い起こし、それを行うため、みだらなことをしてきた自分の心と目に従って歩まないようにするため、

40 こうしてあなたがたが、わたしのすべての命令を思い起こして、これを行い、あなたがたの神の聖なるものとなるためである。

41 わたしはあなたがたの神、主であって、わたしがあなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から連れ出したのである。わたしはあなたがたの神、主である。」

 

故意の罪に関する文脈から、安息日に働いたこの者が、まさに群れから放り出されて殺害される事例となっています。

 

たきぎを集めていたことそのものについてではなく、7日目には働らいてはならないと神が明言して民に伝えられた戒律を守らなかった罪です。

 

なんて悪い事をしたんだ、と考えることができるなら、それは私は素晴らしい事だと思います。

しかし私は、もしこれが自分の事であったなら、かなり罪に流されやすい状況であるように思いました。

 

たきぎを集めるって、要するに家事の一つを行っているわけです。

罪は罪でしょうが、人間からすると、潜在的に些細な罪だと判断してしまうような事です。

嘘は方便、とばかりに、都合の良い小さな嘘とか誇張、事実からの微小な歪曲など、日常的にありませんでしょうか。

しかし、律法では「偽りの証」とされる罪です。

 

そんな”些細”だとほぼ反射的に罪に甲乙をつけてさっさと実行してしまったことについて、神は即座の怒りを振り下ろされていることを見逃してはいけないんだな、と私は思います。

ここが私の今日のQTです。

 

決まりだからやってはいけない、で、良いと思うのですが、もう一段下にある「怒りに遅いお方である神が、どうして迅速な怒りをくだされたか」です。

 

どのような罪であろうと、罪を犯した者は、神からの怒りを逃れることは出来ません。

神はそれを見放されない、どんな罪であろうと誰であろうと罰で報いられる絶対的正義者であられます。

 

そしてこの安息の日にたきぎを集めるような罪というのは、先述通り、人間にはかなり起きやすい罪であるのですが、これにさえ罰で報いられることをまず忘れてはいけません。

更に、「かなり起きやすい」という人の傾向は、短時間とか瞬間的に起き得る「神への背き」「神を無きものとして生きる」不信仰の罪だと思ったのです。

どれだけ熱心な信仰者であっても、その瞬時の背きは起きるんじゃないでしょうか。

 

これに対して、神は対策を施されました。

きものの裾に”ふさ”を付けるように言われています。

当時の着物の形態がどのようなものであったかはっきりしませんが、このようなふさがついていたら、なんだか面倒くさい感じがしませんでしょうか。歩くたびに肌に触れたり、汗をかき出したらまとわりつくかも知れません。

しかし、それが神から与えられた神を忘れない知恵、神の主権で生きていくための知恵なのですから、人間にとって益の象徴とも言えるものです。

いつも「瞬時の背き」を回避し、神が嫌われる罪から離れること、これが過去にも未来にも永遠に”常時”であられる神の御心だということがわかってきました。

 

ただ私がここで明確にしなければならないことは、この神の律法は既に全うされているということです。

神の愛のあらわれ、ジーザスが既に来てくださって、律法の全うを終えてくださっていることも超重要な思い出しであると思います。

あの、軽はずみに安息日にたきぎを積んだ男は、群れから放り出されて殺害されましたが、ジーザスは何の罪も無かった人なのに、エルサレムの外に出されて殺害されました。何故かと言えば、それは、私にある”安息にたきぎ”の罪の報いを受けるためであったことを、はっきりと告白しなければなりません。

 

これを思い出すために、あの神の知恵を実践させていただくのは、一つの良い事かも知れません。

うっとおしくもまとわりつく何か”ふさ”のようなものによって救われる可能性が高まるなら・・・。

使徒パウロを思い出しますが、彼にとってそれは、祈っても癒されなかった身体の問題=”とげ”であったのかなあ、と思います。

もちろん、その”とげ”がゆえに高ぶりを抑制されたことをパウロは益だったと言うので、少しニュアンスは異なるのですが、”ふさ”の役割が含まれている気がしてなりません。

 

その痛みとか何らかの体の不具合が、かえってパウロを神に近づけていたものであるとするなら、私に起こっているある事(放置してきて戻らなくなったある身体に関する言わば”自業自得”な不具合)についても理解が進みます。これはもしかすると”ふさ”ではないか、という可能性を感じています。これによって、神から離れないでいることができるというのは、確かに現実としてあります。朝起きたらすぐに主の祈りをして、その続きにそのことについても祈ります。そのようにして神から離れずにいることで赦される必要が私にはあるのです。それが神の御心であると思います。

 

今日の適用はちょっと難しいですが、一つ一つに気をつける、瞬時の背きから逃れること、にしたいと思います。

これは、習慣のものかも知れません。自分で自分を残念だと思う事は、とても衝動的に動いてしまうということです。

なんでもよく考えたらよいというものではありませんが、私から起きる衝動は「みだらなことをしてきた自分の心と目に従って歩む」類であることはもうはっきりとしていますから、常に自覚していかなくてはならないものです。

 

そして、この15章で問題になってきた故意の罪というのは、悔い改めない罪、と言い換えが可能です。完了形の罪であっても、それを心から悔いることによって改めは自ずと起きます。神はそれを待たれています。

一つ一つに気をつけることによって、自分が神によって修理されなければならない存在であることがますます浮かび上がってくるはずです。