イエスは将来に十字架を見据えてお生まれになりました。罪の赦しというものが存在するために。
私はこれまで、本当にひどい仕事をいくつか経験してきました。ある年のクリスマス休暇には、ごみ収集の仕事をしましたが、寒さ、雪、そしてげっ歯類との闘いの中で、それは決して良い季節の過ごし方とは言えませんでした。大学の夏休みに、ある工場でインターンとして働き、排気系統の部品から酸で錆を落とす仕事をしました。また別の時期には、レンガ職人の手元(“ブリッキー”)として、コンクリートブロックを運び、コンクリートを練る仕事をしました。そのときは外が非常に寒く、凍る前に使えるようにコンクリートに不凍液を混ぜる必要がありました。ある仕事ではあまりに汚れるため、母に「家に入る前に裏口で服を脱いでから来なさい」と言われたほどでした。
しかし、そうした仕事をなんとか耐えられたのは、それが「一時的なもの」だとわかっていたからです。過酷で、不快で、見た目も悪く、体力的にも大変な仕事でしたが、いつか終わるものだと知っていたのです。
私はそういった仕事を「生涯の仕事」として担っている人々のことを思うと、いつも心から同情と感謝を覚えます。彼らのおかげで私たちの生活は成り立っています。しかし彼らのことを思うとき、私はほぼ必ず「別の誰か」のことを思い出します。それは、この世に生まれたただ一人の完全な人間、つまり「死ぬこと」が仕事として与えられていた方のことです。
少し想像してみてください。もしあなたが「少しの間だけ汚れ仕事をする」だけではなく、「一生きつい仕事をする」だけでもなく、「あなたの存在の究極の目的が、不当で残酷な死を遂げることだ」と知っていたら、どうでしょうか?
イエスの将来にあったことは、イエスご自身にとって驚きではありませんでした。彼の捕縛、裁判、死という衝撃的な出来事は、個人的な敗北ではなく、神の計画の失敗でもなく、敵の勝利でもありませんでした。むしろ、それはイエスの個人的な勝利であり、神の計画が完全に成功したという公の証でした。
イエスがこの壊れた世界に入り、その壊れた現実の中で苦しみ、あらゆる面で完全な人生を生き、そして十字架で死ぬ――この計画は、イエスが最初の息をされる前から定められていたのです。
それ以外に方法はなかったのです。道徳的反逆である罪ゆえに、義が成し遂げられなければならず、正当な罰が支払われなければならなかったのです。キリストの死と復活がなければ、イエスの義を、自らの力では義とされ得ない人々の「口座」に譲渡することも、罪に対して正しい罰が支払われたことによって赦しが与えられることも不可能だったのです。
このようにして、罪人たちは赦され、神との関係に受け入れられることが可能となりました。それは驚くべき恵みの行為でありながら、同時に神の正義を侵すこともありませんでした。
イザヤはこの計画について次のように語っています:
「だれがわれわれの聞いたことを信じえようか。
主の御腕はだれに現れたか。
彼は主の前に、若枝のように芽生え、
砂漠の地から出た根のように生え出た。
彼には見るべき姿もなく、輝きもなく、
われわれが慕うような美しさもなかった。
彼は侮られ、人々に捨てられ、
悲しみの人で病を知っていた。
人が顔を背けるほど侮られ、
われわれも彼を尊ばなかった。
まことに、彼はわれわれの病を負い、
われわれの痛みを担った。
しかし、われわれは思った、
彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだ、と。
しかし彼は、われわれの背きのために刺され、
われわれの咎のために砕かれた。
彼の懲らしめによって、われわれに平安が与えられ、
彼の打ち傷によって、われわれは癒された。
われわれは皆、羊のようにさまよい、
おのおの自分の道に向かって行った。
しかし主は、すべての咎を彼に負わせた。
彼はしいたげられ、苦しめられたが、
口を開かず、ほふり場に引かれていく小羊のように、
また毛を刈る者の前で黙っている羊のように、
彼は口を開かなかった。
彼は捕えられ、さばきによって取り去られた。
彼の時代の者のうち、誰が思ったであろうか。
彼がわが民のそむきのゆえに、
生ける者の地から断たれたことを。
彼の墓は悪人と共に設けられ、
彼は死において富める者と共にあった。
彼が不法を行わず、
その口に欺きがなかったのに。
しかも主は彼を砕くことを喜ばれ、
彼を悩ませられた。
彼のいのちを罪のためのささげ物とするならば、
彼は子孫を見ることができ、
彼の日々は長くなり、
主の望まれることは彼の手によって成し遂げられる。
彼は自分のいのちの苦しみのあとを見て満足する。
わが義なるしもべはその知識によって、
多くの人を義とし、彼らの咎を負う。
それゆえ、わたしは彼に大いなる者たちと共に分け与え、
彼は強い者たちと戦利品を分かち合う。
彼が自分のいのちを死に明け渡し、
そむく者たちのひとりに数えられたからである。
彼は多くの人の罪を負い、
そむく者たちのためにとりなしをした。(イザヤ53章)
救い主としてのイエスの職務記述は何だったでしょうか?
- 侮られ、拒まれること
- 悲しみと苦しみに満ちた人生を送ること
- 私たちの病と痛みを担うこと
- 神に打たれ、苦しめられること
- 私たちの背きのために刺されること
- 私たちの咎のために砕かれること
- 私たちの懲らしめを受けること
- 私たちの癒しのために打たれること
- 私たちの咎を負うこと
- 抵抗せずに虐げられること
- 裁きと圧政を受けること
- 命を断たれること
- 悪人と共に墓に入ること
- 魂の苦しみを経験すること
- 魂を死に引き渡すこと
- 罪人のひとりに数えられること
これが、あなたの救い主に割り当てられたことでした。これが、彼の贖いのための職務記述でした。これが、赦しが与えられ、永遠の命が授けられ、義が与えられ、神に受け入れられ、救いの恵みが解き放たれる唯一の方法だったのです。
イエスは自ら進んで来られ、ひとつの不満も文句もなく、それをすべて成し遂げられました。彼はご自身の苦しみが一時的であり、その実が永遠であることをご存知で、それを喜んで受け入れられたのです。
このレントの季節に、主の愛の深さを立ち止まって思い巡らしましょう。あなたのためにこれほどまでに苦しまれたのです。想像を超えた苦しみを耐えられたのは、私たちが手の届かないものを得られるためでした。これこそが、驚くべき恵みです!
黙想の問---------------------------
1. あなたがこれまで経験した中で、最も辛かった仕事は何ですか?
飛び込み営業でとあるものを売り歩いた時は辛かったです。1日中歩き回りますから肉体的にも辛いのですが、それよりも、嘘八百で二束三文のとあるものを最大で数百万で売るというようなものでしたから、精神的にしんどいことでした。著者とは違い、私は一攫千金を夢見ていましたので、ずっと続けるつもりでいましたが、半年程でギブアップしました。もう嫌ですやめますと泣いたのです。かっこ悪かったですね。どんなものを売るにしても営業というのは、多かれ少なかれ「私だったら・・・」ということを捨てなければならない時があります。もし自分が営業をしている相手の立場であったら、「私だったらそれは買わない→ベストチョイスではない」というものでも、仕事として売りつけなければならない時があるということです。これに耐えることが出来ないというのは、見合わないビジョンを持って仕事をしているということで、私にはその仕事は向かなかったのだと思います。それでも凄く売っている人はいたわけで、単に私は根性が無かったり、気が小さかっただけだとは思いますが。
2. ご自身が「死ぬために来た」と知っていたことは、イエスの人生とミニストリーにどのような影響を与えたと思いますか?
これを自分に置き換えて想像することすらなかなか難しいのですが、一般的に考えられるような人生でのイベントに何ら価値を見出すことが出来なくなると思います。例えば、30歳くらいで結婚して、35歳頃には子供が出来て、住宅を買って・・・というようなライフプランは、全く興味が湧いてきません。人生そのものがミニストリーになっていきますから、それのみに集中して向かう事になりそうです。ジーザスは、死ぬために来た、というか、他人が生きるために来た、お方です。そこへの整合性を考えるとミニストリーは、徹底して人としての自己を排して行われるものになりそうです。しかし、人であられたわけですから、迫り来るタイムリミット、つまり苦しみの時が近づく程、逃げ出したい気持ちに駆られたのは無いでしょうか。恐怖されたということです。それもまた、私たちが救われるためには必要であった苦痛なのかも知れません。
3. キリストの目的を持った犠牲は、あなたの働きやミニストリーに対する姿勢をどのように変えますか?
キリストが苦しまれたことに比べたら私の苦しみなんか・・・・という風に考えたくなるのですが、なかなかそれでしんどいことが楽にはなりません。それは、思考が自分へと向いているからなのだと思います。死に向かわれたジーザスから受けるべき影響は、自分のための働き、自分のためのミニストリーから、自分以外の何者かのために、という変化にあらわれるべきだと思います。これも難しいことではあるのですが、ジーザスを信じる者が、生き方というより死に方とか、何をもって死ぬかというところに焦点を当てて生きてみることは有意義であると思います。その根拠であるジーザスに焦点を当てることにつながります。こういう過程の方が、自分が受けているネガティブなものから解放されて、もっと積極的な取り組みを得られると思います。
イザヤ53章をもう一度読み直し、キリストがあなたのためにしてくださったすべてを黙想しましょう。
今日は、正しくみちびかれたように思えました。
人間として来られたジーザスは、何一つ自分の利益のためになされた事はありません。それは、彼の人生での目的がそもそも自分の所有物ではないと最初から決められていたことがわかります。人としては、なんてかわいそうな、なんて気の毒な人生でしょうか。しかし、それは演歌やメロドラマ志向の話ではなく事実であることを覚えなければならないと思います。全ては、ご自分以外の人類全体の喜びや安堵のためでした。そして、そこには私自身も含まれていることを覚えなくてはいけません。かわいそうな人生を歩んでくださったがゆえに、私の人生は永遠に続き喜びに満ちるわけです。そして、ジーザスのそのかわいそうな人生は、かわいそうで終わったわけではないこともまた、確かになってきます。
「彼は自分のいのちの苦しみのあとを見て満足する。」
ですから、ジーザスがかわいそうな人生は悲しみで終わったわけではないということです。満足されたのです。これは「かわいそう」ではなく「よかったね!」でしょう。