確信と希望をもって祈るためには、「誰に向かって祈っているのか」をよく知る必要があります。

たとえば、何かとても恥ずかしく、屈辱的で、もしかしたら相手を怒らせてしまうかもしれないことを告白しなければならないと想像してください。その「話」を切り出すのをずっと恐れていて、何日も不安な日々を過ごし、夜も眠れず、「どうやって言おうか」「いつがいいだろうか」と思い悩んでいたとします。そして、告白すべき相手が二人いるとしたらどうでしょう。

一人目は、あなたがまったく知らない人です。その人があなたのことをどう思っているのかもわかりませんし、どんな反応をするかもまったく想像がつきません。 
もう一人は、あなたがよく知っている人です。その人は恵みに満ち、親切で、忍耐深く、赦しの心を持っている人です。そして何より、あなたが何をしても、変わることなくあなたを愛し続けてくれると確信できる人です。

さて、どちらの人に対して、あなたはより恐れや不安を感じるでしょうか? 
答えは簡単です。不安の原因は、あなたが「よく知らない」人です。

謙遜な告白というのは、相手の人柄とあなたへの愛によって初めて勇気づけられるものです。その人があなたをどれだけ愛してくれているかが、恐れを打ち砕き、正直で率直な告白へとあなたを導いてくれます。 
私たちが過ちを認め、言い訳や責任転嫁をせずに素直に告白することを妨げるのは、プライドだけではありません。恐れも大きな要因です。だからこそ、この悔い改めと自己吟味の時期に、祈りの中で「誰が私の告白を聞いてくださるのか」を正しく理解することがとても大切なのです。

ヘブル人への手紙の著者が、私たちが告白をささげるお方についてどのように語っているかを見てみましょう。

 「さて、私たちには、天を通って行かれた偉大な大祭司、神の子イエスがおられるのですから、私たちの告白する信仰を堅く保とうではありませんか。 

 

 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、すべての点において、私たちと同じように試みに会われた方です。ただし、罪は犯されませんでした。 
 

ですから、私たちはあわれみを受け、恵みによって助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」 
ヘブル4:14-16

これほど慰めに満ちた言葉は、なかなか見つからないでしょう。あなたが告白をする相手は、あなたを完全に知っておられる方であり、あなたの経験するすべてを個人的にご存知の方なのです。 
この希望に満ちた招きの背後にある論理を、少し詳しく見てみましょう。

1. あなたの救い主は、あなたに同情してくださいます

もう一度、上の聖句を読み返してみてください。 
万物の創造主であり、栄光の王である主が、**あなたに同情してくださるのです。イエスは、あなたに苛立ちを覚えたり、怒ったり、うんざりした目で見たりはされません。 
イエスはあなたに対して優しい心を持ち、思いやりに満ちておられるのです。

ヘブル書は「私たちの弱さに同情できない方ではない」とはっきり語っています。この「弱さ」は、心・体・魂・思いなど、あらゆる側面にわたる人間の弱さ全体を意味しています。 
私たちは皆、恵みによって支えられている弱さの集合体です。どんなに強く見えても、自分の力だけで立てる人などいません。

では、なぜイエスは私たちの弱さに共感してくださるのでしょうか? 
それは、イエスがこの地上で私たちと同じ「人間」として生きられたからです。イエスは弱さを身に負い、弱い者たちがご自身のもとに逃れて来られるようにしてくださいました。

2. あなたの救い主は、あなたと同じ道を通られました

イエスは人となっただけでなく、この堕落した世界の現実の中で生きることを自ら選ばれました。イエスは、あなたがいるこの世界を理解しています。 
日々あなたが直面する誘惑にも驚かれません。それは、イエスご自身もまったく同じように誘惑されたからです。 
人間関係の葛藤も、人生の困難も、孤独も、イエスはすでに経験されています。

ここで大切なのは、イエスが誘惑にあわれたことが神のご計画の「邪魔」だったのではなく、むしろ救いのために欠かせない要素だったということです。 
あなたのために、イエスはあらゆる誘惑を経験されました。だからこそ、あなたが助けを求めるとき、その助けは理解と共感に満ちたものになるのです。

3. あなたの救い主は、罪を犯さずに勝利されました

ここまででも慰められますが、ヘブル書の著者はさらに深く語ります。 
イエスがあなたに同情してくださること、あなたの経験を理解しておられること…それだけでは不十分です。 
私たちには「助け」が必要だからです。

イエスは、あなたがいつも負けてしまうその誘惑に、完全に打ち勝たれた方です。 
思い・言葉・行動において、一度も罪を犯されませんでした。

それはあなたのためでした。 
イエスが誘惑に打ち勝つたびに、その勝利はあなたのものとされました。 
だからこそ、私たちには「彼の力によって」罪に打ち勝つ希望があるのです。

4. あなたがイエスのもとに行くとき、その場にふさわしい恵みとあわれみが与えられます

イエスは私たちの弱さに同情してくださるだけでなく、その瞬間にふさわしい助けを、必要な形で、最も良いタイミングで与えてくださいます。

だから、どんなに罪深く思えることであっても、 
どれほど失敗を重ねてきたとしても、 
どれだけ弱く感じていても、 
あなたは決して助けや希望から切り離されてはいないのです。

なぜなら、あなたには大祭司がおられるからです。 
その名はイエスです。


罪は「否定」によってではなく、「告白」によってしか打ち破られません。

真の助けを得るための第一歩は、告白です。 
だから、恐れや失望を感じたときは、ヘブル4:14-16を何度も読みましょう。 
暗記して、自分に何度でも言い聞かせてください。 
「私の救い主は思いやりに満ちたお方だ」と。 
「私が失敗しても、彼にはそれに打ち勝つ力がある」と。

黙想の問い--------------------
1. あなたが最後に誰かに「告白」したのはいつですか?そのときの経験は、キリストに対して告白することとどう違いましたか?

 

つい先日、教会でミニストリー報告があったのですが、それは人身売買に関するものでした。以前、ゲスト講師として来てくださったある牧師さんのメッセージに強く心を刺されたことあったのですが、その方がまさに同じようなミニストリーを主導される方でした。それで私はハッと思い、報告をしてくれたリーダーと話をしました。そこで、私がどうして自分がそのミニストリーに興味があるかを説明しなければならなかったのですが、それは神が求められているものだと感じ、告白が必要だと思いました。私は、人身売買のブローカーではありませんでしたが、売り渡される先の顧客でした。そのことを彼に告白しました。

人に対する告白とキリストに対する告白は、根本的に違います。そもそも求めるものが違います。キリストへの告白には赦しと乗り越える力が与えられます。

2. 神があなたの人間的な弱さに同情してくださると知るとき、あなたの祈りはどう変わりますか?

 

祈りの変化という受け止めは今のところないのですが、祈りの内容を変えることによってわかってくるものはあるのじゃないか、と思います。それは、告白を含めていくことです。罪の告白を含めた祈りをしてみること。それから、自分を変えてくださることをも含めること。今日のこのメッセージからはそういう実践を受け取っています。

3. イエスがあなたと同じ誘惑を経験し、それを打ち破ったと知ることは、あなたが誘惑に立ち向かうときどんな助けになりますか?

 

安心があります。あの方は、裏の裏まで知っておられます。

ある瞬間は、とても悔いていても、どういうわけか誘惑のような形でまた沸々を湧き上がってくる。罪はそんなものだらけです。ジーザスはその事を知っておられるのだと思います。ご自身が打ち勝たれたから、お前もがんばれというものではありません。願う人間の思考構造や、状況までコントロールされるお方ですから、自分のがんばりが足らずにまた誘惑に敗北したとしても、ジーザスに告白して変わることを願うことには合理性があります。しかし、私自身、本当にそれがわかっているか、ということが課題です。嫌われてしまうのではないか、もう愛想をつかされてしまうのではないか、そういう不安を持っていると思います。ですから、罪を犯すかどうかとか、そういうものではなく、まずはジーザスに対して安心すること。この信仰が求められていることだと思います。

ヘブル人への手紙 4章14~16節をもう一度読んで、暗記しましょう。 
そして、その御言葉を武器として、罪との戦いに立ち向かいましょう。

14 さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。
15 この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。
16 だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。

 

ふと思いだすことがあります。

以前、不動産営業をしていた事がありますが、一緒に入社した同期は次々と契約を取れているのに、私は全くだめでした。3か月が経過した頃、私は相変わらずボウズ。焦れば焦るほど、まともに接客できなくなりました。そんな中、このお客なら誰が担当しても契約するだろうという方に当たりました。何の障害も無く契約まで漕ぎつけることが出来ました。もう入社から半年近く経っていたと思いますが、初契約でした。

 

すると、とある営業の先輩が、お祝いをしようと言うことで、食べたこともないようなハモの料理を食べさせてくださいました。そこまで親しい方ではないのに、どうしてそんな事までしてくださるのかなと思ったのですが、ご自身も契約が取れなくて苦しんだことがあるから、とのことでした。すると、一緒に行った別の先輩が「おめでとう、でもこれは始まりだから、これから〇〇さん(お祝いを企画してくれた人)の期待に応えてもっと売らないといけないよ。」と言いました。するとすかさずその〇〇さんは「そういうことじゃない。ただおれは嬉しかっただけで、これからたくさん契約を取るかどうかは関係なく、一緒に頑張って行こうなということだよ。別に契約なんてどうでもよい。」と言われました。あれからもう数十年経過しましたが、あの言葉のやさしさ、或いは巧みさを私はとても大事にしています。それは、私を少しばかりコントロールして、仕事を改善する方向へと変えたからです。

 

このヘブルのみことばからは、少し近いニュアンスのやさしさを感じています。いえ、あの先輩がジーザスとやや似たやさしさを持っておられたことを思い出した、ですかね。

ジーザスは、告白の内容、告白するその人がどうであれ、理解と同情、そして愛、何よりも力を持って耳を傾けてくださるお方です。先輩と全く違うところは、力を持っておられることです。全ての物を支配し、コントロールされる神であることを復活でもって証明されたジーザスに近づくこと、嘆きと希望を持って近づけることは、これは本当に希望です。