振り返ることを謙遜に、そして正直に行うことができるのは、同時に上を仰ぐよう招かれているからです。

私はあなたに願ったと言えたらよかったのに、  
でも、そうはしませんでした。  
あなたに手を伸ばしたと言えたらよかったのに、  
でも、それは起こりませんでした。  
助けが必要だと思えたらよかったのに、  
でも、私の心は別のところにありました
。  
あなたの知恵を求めたらよかったのに、  
でも、自分を賢いと思っていました。  
あなたにより頼んだらよかったのに、  
でも、自分はしっかり立っていると思っていました。  
あなたの恵みに身を投げたらよかったのに、  
でも、鏡に映る自分はそれを必要としていないように見えました。  
毎日をあなたと共に始められたらよかったのに、  
でも、私は忙しすぎました


夜をあなたと共に終えられたらよかったのに、  
でも、私は疲れすぎていました
。  
もっとあなたの御言葉に時間を費やせたらよかったのに、  
でも、会う人がいて、行く場所がありました。  
一人では進めない道を見据えられたらよかったのに、  
でも、私は今この瞬間のことしか見ていませんでした。

私は今、人生の後ろにある日々の方が  
前にある日々よりも多い者となりました。  
私は悔いています――  
自分の力を過大評価したことを、  
自分の知恵を誇ったことを、  
自分を義しいと見なしたことを、  
独立しようとしたことを。  
失われた時間を、  
逃してしまった機会を、  
今はもう色あせてしまった夢を、  
私は悔いています。


もしあなたの恵みがなければ、  
私は残りの日々を  
絶望の雲の中で過ごし、  
自分を責め、  
二度と戻らないものを取り戻そうとあがいていたことでしょう。  
でも、あなたの恵みがあるからこそ、  
私は振り返ると同時に  
上を仰ぐことができるのです。

あなたは私のすべての選択、  
あなたのあわれみが覆わなければならないすべてのことを知った上で  
十字架に向かわれました。  
だから私は、自分の選択について正直になることができます。  
すべてを告白することができます。  
そして、安らぐことができます――

なぜなら、あなたの恵みは  
それほどまでに徹底しており、  
あなたの愛には  
それほどまでに力があるからです。

年月を経る中で私は学びました――  
過去を振り返る力を得るには、  
まず上を仰ぐ恵みが必要なのだと。

黙想の問いかけ--------------
1. あなたの人生における最も大きな後悔は何ですか?この問いに答える時、霊的な後悔がまず思い浮かびますか?それとも後回しになりますか?

 

まずこの詩を読んで、自分のことのようだと心が刺されました。

私は38歳の時に福音を聞いて、その時にははっきりとしなかったけれども、とにかく”重いもの”を降ろしたい一心でクリスチャンになりました。特に、そこに至るまでの10年程は、私にとっては取り返したい10年、後悔の10年です。人としてやるべきことをやらなかったり、やってはいけないことをやってしまったりしていました。ただ考えると、その10年に至るまでについても、そこには私の”負の素質”は既にあり、それは幼い頃からずっとひきずってきたものであると思えます。一体、自分はいつから汚い存在であったのかと言うと、それはまさにダビデが言う”母の胎にいる時から・・・”が現実的であると思うのです。昨今は、自尊心を高く持つことが素晴らしい素晴らしいと言われますから、私もそうありたいと思うのですが、根本的なものがそのようにぶっ壊れていますから、自尊心を上塗りしているその尻からはがれるような、そんなものです。まやかしの自尊心を持てとか、そんなものはどうでもよいのです。しかしそんな自己嫌悪が強いおかげで、私はジーザスに向かうファーストトラックを得れたようなもので、なんとなく、この詩とこの著者の言われることには、強く共感を覚えます。

 

霊的な後悔というのは、単に、あの時のああしておけばよかったな、とか言うものではなく、罪に対しての後悔ということなのだろうと受け取りますが、その私が最も後悔する10年については両方です。単なるリグレットであり、霊的な後悔でもあるということです。

2. この文章に記された後悔の中で、あなたが最も共感するのはどれですか?

 

全部なんですけれど、過去に関する後悔というところでは

 

私はあなたに願ったと言えたらよかったのに、  
でも、そうはしませんでした。  
あなたに手を伸ばしたと言えたらよかったのに、  
でも、それは起こりませんでした。  
助けが必要だと思えたらよかったのに、  
でも、私の心は別のところにありました。  
あなたの知恵を求めたらよかったのに、  
でも、自分を賢いと思っていました。  
あなたにより頼んだらよかったのに、  
でも、自分はしっかり立っていると思っていました。  
あなたの恵みに身を投げたらよかったのに、  

 

私は神を知りませんでした。

全く知らなかったわけではありませんが、正しい者の神、であると思っていたところがあります。

ところが実際には、正しくない者のための神、でもあられたし、神のめぐみというのは特に、正しくない者にとってわかりやすく注がれていることが、今はわかるのです。

 

それって私にとってはNo way!であり、それがそうだとわかった時に拒む理由が見いだせず、真冬なのに汗をかいたんです本当に。

 

もちろん、この聖書で語られている実在の神は、正しい者の神でもあられます。正しくない者についても正しくあって欲しいと願わている神です。そして、ただ願われるだけではなくて、ご神自身の采配によって、正しくない者を正しい者としてくださる道をつけてくださっています。それがジーザス、イエス・キリストのしてくださったことです。”ご自身の采配”というところがポイントで、正しくない者が正しい者になることを、自分の努力や能力で実施して維持することではありません。もちろん、そういう努力が無駄だとは言いませんが、神によってのみなされる領域があり、それが広範囲であるということをまずは知るべきです。私の場合は、先に申し上げますように、そもそも自分自身も、自分の生い立ちもやってきた事も、ありとあらゆる私に関する全てもダメだと思っていましたから、その神がなされる事への期待を持つことが出来ました。これが信仰につながったと思います。

3. あなた自身の「I wish(~だったらよかったのに)」という詩を書いてみてください。

 

もっと早く神をしっていたらよかったのに

もうその他は、多すぎて酷すぎて

使徒の働き 3:17-20を読んでください。そして、悔い改めと共に神の赦しを受け取り、心を新たにしましょう。

17 ですから、兄弟たち。私は知っています。あなたがたは、自分たちの指導者たちと同様に、無知のためにあのような行いをしたのです。

18 しかし、神は、すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられたことを、このように実現されました。

19 そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい

20 それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。

 

とにかく苦しいことですね。しかし私は、ジーザスにあって、こういう思い出しの苦しみが、苦しみで終わることがないことを知っていますから、思い切って苦しめます、なんだか言葉としておかしいですが。ジーザスの苦しみもまた、そうであったのではないでしょうか。あの苦しみによって起きる救いは”予定”されていました。復活もまた予定されていました。だから当時、人そのものであられたジーザスは、最悪の状態にありながらもそこを進まれました。ユダヤ人たちによって無罪であるのに極刑がごり押しされて法治もそれを止めることが出来ず、弟子たちにまで裏切られ、あらゆる人に侮辱され、身体的激痛を受け、最後は父なる神にまで見放され死なれました。人ジーザスのこの死の姿は、なんとも敗北に満ちていて救われるものが一切無いように見えるかも知れません。しかし、ジーザスはその死からよみがえられました。浴びせられた理不尽も死さえもものともせずに平気な顔で「おはよう」と言って弟子たちにあらわれてくださいました。これが最大の希望です。