受難節とは、あなたが神に自分をどれだけ捧げるかということではなく、神がその恵みによってどれほど豊かにあなたに与えてくださったか、ということなのです。

彼は姦淫の罪で発覚しました。それは彼にとって屈辱であり、彼の結婚生活にとっては壊滅的な出来事でした。彼は自ら告白したのではなく、発覚してはじめて打ち明けたのです。ジェリーとその妻は、助けを求めて私のもとに来ました。二人とも、結婚生活を救いたいと願っているように見えました。彼は打ち砕かれた言葉を私に語り、悔い改めているように思われました。メアリーは、ジェリーが罪の誘惑から離れ、主と彼女に向かって新たな信仰の決意を持って歩み始めるのであれば、耐え忍ぶ覚悟があると言いました。

しかし、何度か彼らと面会を重ねるうちに、私はある懸念を抱くようになりました。真に悔い改めた人は、自らの反逆と破壊的行為に圧倒される一方で、神の恵みの大きさと変わらぬ性質に打ちのめされるのです。そうした人々は、神の愛をより深く、そして新鮮に経験し、それを通して、自分の行いや功績では決して得ることのできない愛を、あらためて抱きしめるのです。

しかしジェリーと会うたびに、彼が一番多く話すのはジェリー自身のことでした。彼は主のために自分がどれだけのことを手放したかを語り、自分の新たなディボーション生活の長さと深さ、購入したクリスチャン書籍の数、妻への奉仕の新しいかたちについて語りました。彼は何度も「自分は主のためにすべてを捧げている」と言いました。しかし彼がそう語れば語るほど、そして自分を褒め称えれば称えるほど、私はその言葉を信じることができなくなっていきました。

それは、「神よ、罪人の私を憐れんでください」ではなく、「神よ、私があなたのためにしていることをご覧ください」という態度でした。彼の心の姿勢は、本物の告白が生む悲しみや、真の悔い改めが育てる謙遜とは相容れないものでした。

私がこのデボーションを書き始めたとき、私はジェリーのことを思い出しました。それには理由があります。

レントの季節は、自分自身を神に新たに、またはより深く捧げることに関する時期です。新たな服従とより深い献身の時期です。レントとは、自分の心がどれだけ迷い出ていたかを嘆くことです。この世がいまだに自分をどれほど支配しているか、または自分がどのように誘惑に屈してきたかを告白することです。神があなたに、何かを捧げることや、逆に新たに取り組むべきことを示しておられる場所を見極めるために、自分の心、生活、人間関係、日々の決断を省みるのです。

レントは、あくまでも神を追い求めるがゆえの自発的な自己犠牲の時なのです。それは、一時的で形式的な献身の時ではなく、人生の忙しさや気を散らす要素の中で見失ってしまいがちな問題に向き合うための機会です。

しかし、ここで最も重要なことがあります。レントは、あなたが神のために何をしているか、またはしようとしているかではなく、神がすでにしてくださったこと、そして今もなおしておられることに関する時期なのです

レントの物語とは、この世界で最も重要で、最も素晴らしい「惜しみない与え」の物語です。それは、必要なものを惜しみなく与えるだけでなく、ご自身を究極の贈り物として捧げられたお方の物語です。

しかしレントの物語は、単なる寛大さの話ではありません。それは、与える者と贈り物とが同一人物であるという唯一の物語なのです。レントの希望と確かさは、あなたが神に捧げるものの大きさや一貫性の中にあるのではなく、神があなたに与えてくださった、そしてこれからも与え続けてくださる、驚くべき恵みの賜物の中にあるのです。

真に初めにして主導権を握っておられるのは、神の寛大さです。私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。私たちが与えるのは、神がまず私たちに与えてくださったからです。私たちが命を捧げるのは、神がまず私たちのために命を捧げられたからです。私たちがその御名のために苦しむ覚悟を持つのは、神がまず私たちのために苦しまれたからです。私たちが従うのは、神の従順を通して希望が与えられたからです。私たちが誘惑と戦うのは、神がその誘惑に勝利されたからです。私たちがへりくだって仕えるのは、神が永遠の栄光を離れ、ご自身を低くされ、死に至るまで仕えられたからです。

私たちが自分自身を捧げるあらゆる行為は、ただ神の恵みの贈り物のゆえにのみ成り立つのです。神こそが究極の与え手なのです。私たちがどれほど大きな犠牲を払い、どれほどのものを神に捧げたとしても、神が私たちに与えてくださったものの偉大さには到底及ばないのです。

このレントの時期において、私たちが自分自身をより深く捧げようとする時、私たちが捧げるすべてのものは、神が私たちに与えてくださった恵みの宝庫をたたえる賛美となるのです。レントとはまさに「犠牲」の季節ですが、それは私たちの犠牲ではなく、主の犠牲なのです。

自分の捧げている犠牲に誇りを抱くことは、この霊的省察と成長のすばらしい季節の精神を台無しにするばかりでなく、心を開いて聖霊の働きを受け入れることを妨げてしまいます。誇りは、告白へと導く罪への悲しみと相容れません。誇りは、真の悔い改めを駆動させる謙遜と共に生きることはできません。自己賛美的な態度は、犠牲を「自分は正しい」と思い込む材料へと変えてしまい、「正しい」と信じ込んでいる人間には、この季節の中心にある神の犠牲は不要となってしまうのです。誇りは、レントの本質を完全に転倒させてしまいます。

ここに一つの大きな葛藤があります。たとえそれが自己吟味や告白であったとしても、「自分自身」に焦点を当てる時、誇りはすぐそばに潜んでいるということです。私たちは、もし神の恵みによって救われ、変えられていなければ絶対に持つことのなかった願いや選択、行動に対して、つい自分の手柄にしてしまいたくなる誘惑にかられます。

もし誇りが自己賛美であるなら、それはまた自己依存でもあります。しかしイエス・キリストの福音の全体のメッセージは、私たちが自己依存するようには造られておらず、罪との戦いの中で、自分の力だけでは決して勝利できないということなのです。だからこそ、キリストの犠牲は必要不可欠だったのです。キリストは、私たちが自力では決して成し遂げられなかったことを、私たちのために成し遂げるために来られたのです。それは、私たちが最も献身的で、最も犠牲的な瞬間でさえも同じです。

ですから、この新たな、より深い犠牲と献身の季節においては、「主が与えられた豊かな贈り物」が、いつのまにか「自分が主に捧げるもの」へとすり替えられてしまう誘惑に、しっかりと抗ってください。十字架の麓に立ち、その出来事の偉大さを思うとき、個人的な犠牲に対する誇りを持ち続けることなどできるはずがありません。どうか祈ってください。あなたの捧げるすべての犠牲と贈り物が、究極の贈り物と最も寛大な与え主への賛美となりますように、と。

黙想の問い-------------------

1. ジェリーの話は、本物の悔い改めを見分ける大切な試金石を示しています。あなたはこの試験に合格できるでしょうか?あなたの悔い改めは、あなたがしたことについてですか?それとも神がしてくださったことについてですか?

 

幸い、なことではなくて自分自身の信仰の不完全さによるのですが、私からジーザスに対する犠牲が大したことがないゆえに、自分の罪の申し開きの題材として語ることはまずあり得ないと思います。

そういう点では、私にはむしろジェリーさんを見習うべきところがあり、ちょっとレベルの違う話なのだなと受け取りました。

夫婦の間で問題になる性に関する罪について、しかも夫婦で牧師さんに相談に行っている時点で、彼らの信仰の強さとか純粋さがうかがえますし、美しささえ感じました。特に奥さんの態度に感銘を受けます。彼女は、赦すことを覚悟して行っています、というか、赦すことが出来ないからすがっているように感じるのです。その嘆きに神はきっとこたえてくださるはずです。

ということで、この冒頭の話は、私にとっては著者が導かれる方向性とは少し違った驚きと教訓として受け止めました。

 

ただ今一度当てるべきところに焦点を当ててみますと、それは悔い改めの心がどこにあるか、という部分です。

これについては、自分がしたことについての悔い改めに違いないのですが、何と言うか、親の愛を子供なりに知った子供の心境で悔い改めるのです。

その愛を知って受けている以上、親が子である自分にどうあって欲しいかという心もわかっているのに、そのようにあれなかったこと、その心を踏みにじることについて、「ごめんなさい」と、傍から見れば情けないような感じで泣くのです。

このことには、全く立派さがありません。罪の内容、その執拗さはもちろんですが、まさにダビデが歌うように、自分が母胎にいた時から罪を帯びていたことを思い知って泣くのです。ですから、こうして自分の存在を伏せて、ブログであれこれ言うのが限界で、それを誰かに見てもらったりとか、ましてや、私は悔い改めているなどと誇ることは絶対に出来ません。私は一般基準からも大きく外れて汚らわしい存在であることだけはわかっているからです。

2. レントの期間が、どのようにして誇りにつながることがあるのでしょうか?

 

週に一回、レントの交わりがあります。私は言語が不得手なので多くを語りませんが、ここで「正解を答えてみせる」ことに焦点を当てるなら、あっと言う間に自分の誇りになっていきます。みなが頷くような、誰かに「AMEN!」と言ってもらうための内容に終始するなら、本当にあっと言う間です。しかし、皆、そういうところはあるんじゃないでしょうか。こういう時にこそ、何を語るかよりも、何を聞くかに焦点を当てた方がまだましなのかも知れません。普段は目立たない兄弟や姉妹の方の、心から出た短い言葉に、とても新鮮な励ましを受けることはよくあることです。

3. レントの季節、または年間を通じた霊的な訓練が誇りの源とならないために、どんな実際的な方法で自分を守ることができるでしょうか?

 

前述は、たまたま思いついたことですが、語るよりも聞くことに特に集中するのは良いことかもしれません。

結局のところ、自分から出て来るものは、ほとんどがあまり良くないものだとわかります。それは、自分自身に向かって刃物を振り回しているようなもので、あまり人前で多くは語らない方がよいと思っています。意図せず期せずに称賛を受けたとしても、それもまたしんどいことなんです。そういう危険行為ではなく、しっかりと集中して耳を傾けること、それが具体的に出来ることなのじゃないかと思います。

真摯な思いは、祈りの時間や、どこにいても何をしていても神に打ち明けることが出来ます。そこに本当の姿とか、本当に打ち明けたいことがあるはずですから。

ヤコブの手紙 4章6~10節を読み、罪に対する真の悲しみに導かれましょう。

6 しかし神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」とある。
7 そういうわけだから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。
8 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清くせよ。
9 苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ。
10 主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう。

 

ちっとも嬉しいことでも誇ることでもありませんが、罪を罪として鮮明にしながら、神から離れないことが、辛うじて出来ることです。いつかは聖霊で完全に充満にしてくださって、美しい者の足取りで生きることが出来るようにしてくださるんだと、祈るだけです今は本当に。

 

【証】

現在、海外在住ですが、残りの日程が少なくなって来ているので、少し観光を予定しています。その予定先では、まず雨が降らないところなのですが、私たちが行こうとしているその日が雨予報になっていました。晴れてなんぼ、のところですから、小さな祈りをしていたのですが、今朝の天気予報ではPlenty of Sunshineに。晴れです。いくら心配をしたところで、天気が変わることなんてありません。しかし、全てを支配される神に祈ることは、心配とは別の所にあるものです。感謝します。