あなたや私が捧げるどんな犠牲も、私たちの贖いのためになされたあの犠牲ほど偉大なものではありません。

犠牲

誰もが犠牲を払っています―― 
美しさを保つために、 
健康な体のために、 
スポーツの勝利のために、 
キャリアを築くために、 
人間関係の和を保つために、 
良い投資のために、 
家を持つために、 
名声を求めて、 
親としての愛のために、 
霊的成長のために、 
環境を守るために、 
政治的な力のために、 
高貴な目的のために、 
暗い依存から来るもののために、 
平和のために、 
束縛からの解放のために、 
意見を貫くために、 
悪を暴くために、 
必要を満たすために、 
憐れみを差し出すために、 
仕返しを果たすために、 
助けの手を差し伸べるために。 

毎日、誰かが何かを犠牲にしています。 
みんなそうです。 
誰も避けて通ることはできません。 
人生は犠牲を求めます。 
善はそれを求め、 
悪もまた要求します。 
進んで捧げるときもあれば、 
いやいやながらのときもあります。 
後悔するときもあれば、 
大きな喜びとともに捧げることも、 
深い悲しみの中で捧げることもあります。 
明るい場所で、 
あるいは夜の闇の中で。 
個人的な犠牲、 
公に示される犠牲。 
若い人も、年老いた人も、 
男性も女性も、 
女の子も男の子も、 
あらゆる言語を話す人々、 
あらゆる人種、 
世界中のあらゆる場所、 
歴史のあらゆる時代において、 
数えきれないほどの犠牲がなされてきました。 

しかし、 
そのすべての中で、 
ただ一人だけ、 
「犠牲そのもの」が目的であった人がいました。 
すべての人の必要を満たす犠牲を捧げたのは、ただ一人。 
自分の過ちのためではなく、 
他の人が得るべきではなかったものを得るために代価を払ったのは、ただ一人。 
その資格を持っていたのは、ただ一人。 
神であり、人であるお方、 
神の御子、 
人の子――ただ一人。 

正しい生涯を歩んだのは、ただ一人。 
神に受け入れられる死を遂げたのは、ただ一人。 
神の義を満たしたのは、ただ一人。 
犠牲を「捧げた」だけでなく、 
「ご自身が」その犠牲となったのは、ただ一人。 
神の子羊として、 
その犠牲がすべてを変えたのは、ただ一人。 

罪は打ち砕かれ、 
命が与えられ、 
希望が回復され、 
将来は確かなものとなり、 
神と人は、 
一度限りで永遠に和解しました。 

「完了した。」 

何十億という犠牲が払われてきましたが、 
今の命、 
そして永遠の命のために捧げられた犠牲は、 
ただ一つしかありません。


黙想の問い---------------

1. あなたが今取り組んでいる目標について考えてみてください。それを達成するために、何を犠牲にしていますか? 

 

私は特に確固たる目標に向かってい生きているわけではありません。ただし、仕事の面では、毎週、毎月がサバイバルであり、気を抜けば終了というような状況で生きています。崇高な目標とは言えませんし、誰もそんなものを望んでいないのですが、私にはそういう状況がいつも与えられてきました。子供の頃からずっとです。家族そのもの、学生であること、運動選手としての維持、業績、会社の維持、友人関係の維持などなど。いつもサバイバルです。犠牲となったものを考えると、まず時間、心→考える物事の内容、金など。時に命を犠牲にする覚悟をもった事がありましたが、それは精神論に過ぎず、実際にはなかなか命を犠牲にすることは出来ません。

2. 神との関係を築くために捧げている犠牲は、他のことを成し遂げるために払っている犠牲と同じくらいのレベルでしょうか? なぜそうなのか(または、なぜそうでないのか)考えてみましょう。 

 

幸いなこと、だと私は思うのですが、このサバイバルの中にいると、神との関係性は、言わば必然要素であり、特に時間や金銭面で捧げるものが多くなります。もし、私が特に心配事もなく平安な毎日を過ごせていたら、例えば、聖書を読む時間や祈る時間にここまで時間をかけていただろうか、と問うてみます。すると、まず無いな、というのが私の真実な答えです。ですから、私のこのサバイバル感人生というのは、ちっとも嬉しくない事ではあるのですが、だからこそ神を求めて、いつか来る時にはいよいよ平安があるんだと、希望を持って生きれているのだと思います。

3. キリストがあなたのために払ってくださった犠牲とは何でしょうか? イエスが耐え忍ばれたすべてのことを具体的に挙げて、感謝の祈りを捧げましょう。

 

私のこの罪のためにジーザスが払ってくださったものは、人であるあの方の全てです。命、楽しみ、希望、最後には渇望された父なる神からの愛まで閉ざされたのだと思います。つまり、絶望です。人としての全てを捧げてくださいました。

私はサバイバルしている、と勝手に思っていますが、昨日は「次のランニングシューズはどれにしようか」とか「たまには寿司でも食べたいな」とか、生きていく上ではあってもなくてもどっちでもよいようなものに心を向けているのです。得ることに必死になっていると言えると思います。

 

しかし、人であるジーザスというお方は、言うなれば”取り上げられるもの”に夢中になられた方と言えます。もちろん、神でありながら人であるがゆえに、与えられる事に喜びを覚えられるお方であったことは、聖書が語る通りです。私は想像の中で考える事は、側近のあの弟子たちとの時間もまた、楽しみであられたのかなと思っています。最後には、ついにそういう楽しみも、喜びも捨てられました。弟子たちから見放されたとも言えます。そのために来られたのです。そんなことあるか!という気持ちですが、実際そうなのです。

 

私は心が貧しくならなければなりません。その事をどれだけ自分に刻んでいるかということです。

私が「サバイバルしている」なんて言うことは、全く馬鹿らしいことのように思えてきます。自分のサバイバルのためではなく、他人、人類全体のサバイバルのためにご自分自身を捨てられたのですジーザスは。本来は、私が取り上げれるべきものを、代わりに取り上げられた、そういう事です。それにより、私は永遠にサバイバル出来る事が確定しているわけですから、それ、サバイバルと言うか?と自分に問わなくてはなりません。

マタイによる福音書26章20節~27章53節に記された十字架の出来事を読んでみましょう。

26;
20 夕方になって、イエスは十二弟子と一緒に食事の席につかれた。
21 そして、一同が食事をしているとき言われた、「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」。
22 弟子たちは非常に心配して、つぎつぎに「主よ、まさか、わたしではないでしょう」と言い出した。
23 イエスは答えて言われた、「わたしと一緒に同じ鉢に手を入れている者が、わたしを裏切ろうとしている。
24 たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。
25 イエスを裏切ったユダが答えて言った、「先生、まさか、わたしではないでしょう」。イエスは言われた、「いや、あなただ」。
26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。
27 また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。
28 これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。
29 あなたがたに言っておく。わたしの父の国であなたがたと共に、新しく飲むその日までは、わたしは今後決して、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。
30 彼らは、さんびを歌った後、オリブ山へ出かけて行った。
31 そのとき、イエスは弟子たちに言われた、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう』と、書いてあるからである。
32 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」。
33 するとペテロはイエスに答えて言った、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」。
34 イエスは言われた、「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないというだろう」。
35 ペテロは言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。弟子たちもみな同じように言った
36 それから、イエスは彼らと一緒に、ゲツセマネという所へ行かれた。そして弟子たちに言われた、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。
37 そしてペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた
38 そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。
39 そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。
40 それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。
41 誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。
42 また二度目に行って、祈って言われた、「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」。
43 またきてごらんになると、彼らはまた眠っていた。その目が重くなっていたのである。
44 それで彼らをそのままにして、また行って、三度目に同じ言葉で祈られた
45 それから弟子たちの所に帰ってきて、言われた、「まだ眠っているのか、休んでいるのか。見よ、時が迫った。人の子は罪人らの手に渡されるのだ。
46 立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた」。
47 そして、イエスがまだ話しておられるうちに、そこに、十二弟子のひとりのユダがきた。また祭司長、民の長老たちから送られた大ぜいの群衆も、剣と棒とを持って彼についてきた。
48 イエスを裏切った者が、あらかじめ彼らに、「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえろ」と合図をしておいた。
49 彼はすぐイエスに近寄り、「先生、いかがですか」と言って、イエスに接吻した。
50 しかし、イエスは彼に言われた、「友よ、なんのためにきたのか」。このとき、人々は進み寄って、イエスに手をかけてつかまえた。
51 すると、イエスと一緒にいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、そして大祭司の僕に切りかかって、その片耳を切り落した。
52 そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる
53 それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。
54 しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」。
55 そのとき、イエスは群衆に言われた、「あなたがたは強盗にむかうように、剣や棒を持ってわたしを捕えにきたのか。わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、わたしをつかまえはしなかった。
56 しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書いたことが、成就するためである」。そのとき、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った
57 さて、イエスをつかまえた人たちは、大祭司カヤパのところにイエスを連れて行った。そこには律法学者、長老たちが集まっていた。
58 ペテロは遠くからイエスについて、大祭司の中庭まで行き、そのなりゆきを見とどけるために、中にはいって下役どもと一緒にすわっていた。
59 さて、祭司長たちと全議会とは、イエスを死刑にするため、イエスに不利な偽証を求めようとしていた。
60 そこで多くの偽証者が出てきたが、証拠があがらなかった。しかし、最後にふたりの者が出てきて、
61 言った、「この人は、わたしは神の宮を打ちこわし、三日の後に建てることができる、と言いました」。
62 すると、大祭司が立ち上がってイエスに言った、「何も答えないのか。これらの人々があなたに対して不利な証言を申し立てているが、どうなのか」。
63 しかし、イエスは黙っておられた。そこで大祭司は言った、「あなたは神の子キリストなのかどうか、生ける神に誓ってわれわれに答えよ」。
64 イエスは彼に言われた、「あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」。
65 すると、大祭司はその衣を引き裂いて言った、「彼は神を汚した。どうしてこれ以上、証人の必要があろう。あなたがたは今このけがし言を聞いた。
66 あなたがたの意見はどうか」。すると、彼らは答えて言った、「彼は死に当るものだ」。
67 それから、彼らはイエスの顔につばきをかけて、こぶしで打ち、またある人は手のひらでたたいて言った、
68 「キリストよ、言いあててみよ、打ったのはだれか」。
69 ペテロは外で中庭にすわっていた。するとひとりの女中が彼のところにきて、「あなたもあのガリラヤ人イエスと一緒だった」と言った。
70 するとペテロは、みんなの前でそれを打ち消して言った、「あなたが何を言っているのか、わからない」。
71 そう言って入口の方に出て行くと、ほかの女中が彼を見て、そこにいる人々にむかって、「この人はナザレ人イエスと一緒だった」と言った。
72 そこで彼は再びそれを打ち消して、「そんな人は知らない」と誓って言った。
73 しばらくして、そこに立っていた人々が近寄ってきて、ペテロに言った、「確かにあなたも彼らの仲間だ。言葉づかいであなたのことがわかる」。
74 彼は「その人のことは何も知らない」と言って、激しく誓いはじめた。するとすぐ鶏が鳴いた。
75 ペテロは「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。

27:
夜が明けると、祭司長たち、民の長老たち一同は、イエスを殺そうとして協議をこらした上、
2 イエスを縛って引き出し、総督ピラトに渡した。
3 そのとき、イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して
4 言った、「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」
。しかし彼らは言った、「それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい」。
5 そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。
6 祭司長たちは、その銀貨を拾いあげて言った、「これは血の代価だから、宮の金庫に入れるのはよくのない」。
7 そこで彼らは協議の上、外国人の墓地にするために、その金で陶器師の畑を買った。
8 そのために、この畑は今日まで血の畑と呼ばれている。
9 こうして預言者エレミヤによって言われた言葉が、成就したのである。すなわち、「彼らは、値をつけられたもの、すなわち、イスラエルの子らが値をつけたものの代価、銀貨三十を取って、
10 主がお命じになったように、陶器師の畑の代価として、その金を与えた」。
11 さて、イエスは総督の前に立たれた。すると総督はイエスに尋ねて言った、「あなたがユダヤ人の王であるか」。イエスは「そのとおりである」と言われた。
12 しかし、祭司長、長老たちが訴えている間、イエスはひと言もお答えにならなかった。
13 するとピラトは言った、「あんなにまで次々に、あなたに不利な証言を立てているのが、あなたには聞えないのか」。
14 しかし、総督が非常に不思議に思ったほどに、イエスは何を言われても、ひと言もお答えにならなかった
15 さて、祭のたびごとに、総督は群衆が願い出る囚人ひとりを、ゆるしてやる慣例になっていた。
16 ときに、バラバという評判の囚人がいた。
17 それで、彼らが集まったとき、ピラトは言った、「おまえたちは、だれをゆるしてほしいのか。バラバか、それとも、キリストといわれるイエスか」。
18 彼らがイエスを引きわたしたのは、ねたみのためであることが、ピラトにはよくわかっていたからである。
19 また、ピラトが裁判の席についていたとき、その妻が人を彼のもとにつかわして、「あの義人には関係しないでください。わたしはきょう夢で、あの人のためにさんざん苦しみましたから」と言わせた。
20 しかし、祭司長、長老たちは、バラバをゆるして、イエスを殺してもらうようにと、群衆を説き伏せた。
21 総督は彼らにむかって言った、「ふたりのうち、どちらをゆるしてほしいのか」。彼らは「バラバの方を」と言った。
22 ピラトは言った、「それではキリストといわれるイエスは、どうしたらよいか」。彼らはいっせいに「十字架につけよ」と言った。
23 しかし、ピラトは言った、「あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか」。すると彼らはいっそう激しく叫んで、「十字架につけよ」と言った
24 ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」。
25 すると、民衆全体が答えて言った、「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」。
26 そこで、ピラトはバラバをゆるしてやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした。
27 それから総督の兵士たちは、イエスを官邸に連れて行って、全部隊をイエスのまわりに集めた。
28 そしてその上着をぬがせて、赤い外套を着せ、
29 また、いばらで冠を編んでその頭にかぶらせ、右の手には葦の棒を持たせ、それからその前にひざまずき、嘲弄して、「ユダヤ人の王、ばんざい」と言った
30 また、イエスにつばきをかけ、葦の棒を取りあげてその頭をたたいた
31 こうしてイエスを嘲弄したあげく、外套をはぎ取って元の上着を着せ、それから十字架につけるために引き出した。
32 彼らが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に負わせた。
33 そして、ゴルゴダ、すなわち、されこうべの場、という所にきたとき、
34 彼らはにがみをまぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはそれをなめただけで、飲もうとされなかった。
35 彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いて、その着物を分け、
36 そこにすわってイエスの番をしていた。
37 そしてその頭の上の方に、「これはユダヤ人の王イエス」と書いた罪状書きをかかげた。
38 同時に、ふたりの強盗がイエスと一緒に、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた
39 そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって
40 言った、「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」。
41 祭司長たちも同じように、律法学者、長老たちと一緒になって、嘲弄して言った、
42 「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。
43 彼は神にたよっているが、神のおぼしめしがあれば、今、救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから」。
44 一緒に十字架につけられた強盗どもまでも、同じようにイエスをののしった
45 さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ。
46 そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
47 すると、そこに立っていたある人々が、これを聞いて言った、「あれはエリヤを呼んでいるのだ」。
48 するとすぐ、彼らのうちのひとりが走り寄って、海綿を取り、それに酢いぶどう酒を含ませて葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。
49 ほかの人々は言った、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」。
50 イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。
51 すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。また地震があり、岩が裂け、
52 また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った
53 そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現れた

 

あらゆる事が凝縮されたものですから、何が大事とか、覚えておくべきとか、そういう選択は無いと思います。

 

私があらためてこの経緯を追って、心に刻むのは、ジーザスが捨てられたのは、命だけではなく、全ての良いようなものなのだということです。

弟子からまず見捨てられました。一番弟子と言えるペテロもまたジーザスを見捨てました。ある時は、ホザナホザナと言って迎え入れた民衆もジーザスを見捨て、その代わりに強盗を迎え入れました。また兵士たちからは酷い侮辱を浴びせられ、誉れとか栄光を捨てられました。また、法も捨てられました。つまり、法的に自分を守る権利、現代で言うところの人権までも自分から捨てられています。強盗と共に十字架にかけられているということもまた、誇らしいものを捨てられたがゆえに起きた事だと思います。理不尽の限りを受けて、最後に、神から見捨てられ、命が捨てられました。

 

もう一つは、捨てた者の姿です。一番弟子ペテロと裏切りもののユダのパラドックスです。

ペテロは、ジーザスを捨てたことを思い知った時、激しく泣きました。

ユダもまた、自分の裏切りが酷いものであった事を自覚すると、報酬であった金を放棄し、首を吊りました。

 

ペテロとユダ、現代的な価値観に照らすと、ユダの方が反省して罪を悔いた姿のように見えて来ます。

しかし、ここに罪の本質と、その扱いについてを見出さなければ、ジーザスが捨ててくださったものが不意になってしまうと思います。

罪は、人間が自分でなんとかできるようなものではないということです。後悔して自分の命をもって償ったつもりでも、神の目には、罪は罪のままで残っているということです。これをよくよく覚えておかなくてはなりません。

 

ですから、その罪の重さをただ噛みしめて泣くことしか出来ないということです。

泣くことにも、罪に対する正しさは何一つありませんが、神の前では自然な反応ではあると思います。

そして、既にジーザスがその罪のために捨ててくださった事を覚えること、そして赦しを乞う事。これによって、罪から救い出してくださると聖書は語ります。

その罪が赦されることが、滅びではなくいのちが与えられることなのだと言うのです。

 

罪を前にして、自殺と悔い改め、どちらを選びますか?という話でもあります。

悔い改めることに道があり、自殺には道が無いこともまた、しっかりと受け止めておくところだと思いました。