この地上にいる私たちは、しばしば「贈り物(祝福)」を与えてくださる方よりも、その「贈り物」そのものを愛してしまいやすいものです。
愛するがゆえの警告
親は本能的に、警告を与えることが本当の愛の一部であると理解しています。愛するがゆえに、親は子どもにさまざまな警告を発するものです。幼い頃は「熱いもの」「鋭利なもの」「汚れたもの」「毒のあるもの」に対する警告をし、大きくなると「堕落した世の誘惑」に対する警告をします。私には二人の孫娘がいますが、彼女たちと一緒にいると、つい色々な警告をしてしまうことに気づきます。
時には、その警告は「ルール」と結びついています。子どもたちは親から与えられたルールを守るよう教えられますが、警告は単なる「罰」や「裁き」ではありません。もし私が単に「裁き」を与えるだけなら、そもそも警告などしないでしょう。警告をするのは、子どもたちに「苦しんでほしくない」「痛みを味わってほしくない」という愛があるからです。警告されるということは、愛されているということです。警告を受けることは、神の恵みなのです。
偽りの礼拝と偶像崇拝
聖書は、ある種の「偶像崇拝」に対する警告を与えています。それは「神を礼拝しているように見えて、実は物を愛している」という非常に巧妙な偶像崇拝です。「神を礼拝すること」と「物を崇拝すること」との戦いは、私たちが思うよりもずっと分かりにくいものです。
私の神学校の教授が、ある教会で経験した出来事を話してくれました。礼拝の中で、信者たちが神を賛美し、証をしていました。ある女性が立ち上がり、こう証ししました。「私は支払えない請求書を抱えていました。でも祈りました。すると、神様が必要な金額を与えてくださいました。本当に神様の誠実さに感謝しています!」
一見、とても正しい証しに思えます。しかし、教授は心の中でこう考えました。「もし神が、その女性の霊的成長のため、またご自身の栄光のために、その請求書を支払えないままにされたらどうなっていただろう? 彼女はそれでも『神は誠実です!』と賛美できただろうか?」
私は似た状況を少なくとも2度経験しました。
金額が莫大であった1度目は、本来私が支払うべきものでなかったところを回復させてくださったもので、それが現実になった時には、神への感謝というより、弁護士への感謝ばかりでした。しかし、しばらく経ってからそのことを振り返ってみると、普通は成立し得ないスキームが合意を得て成立しているわけで、神のわざとしか思えません。
2度目は、これもただ請求書とか契約上の金額が支払えなかったということではなくて、またこれも、私が使い込んだものではありませんでした。しかも、この金の支払いが、他の大事なイベントへの条件になっていたもので、金がどうこうと言うより、そのイベントに進めてくださったことに感謝しました。その時、私にとって金が重要であったわけではありませんから。
私が経験したことは、本来自分が支払うべき金を支払わずに済んだ、ものではあるのですが、神がしてくださったのは「そういうことではない」ということがよくわかります。もしそれだけであったなら、証が立たないわけです。それも経験しました。
この教授の考えは、一見すると厳しく、冷たいように聞こえるかもしれません。しかし、彼が指摘しているのは「私たちの心の中にある微妙な戦い」です。私たちは、神が「目に見える祝福」を与えてくださった時に、最も強く「神の臨在」を感じるのではないでしょうか? もしかすると、私たちは神を愛しているのではなく、「神が与えてくださる祝福」そのものを愛しているだけなのかもしれません。
神が私たちの祈りに応えて何かを与えてくださった時、私たちは「神を礼拝している」と思うでしょう。しかし実際には、私たちの心を本当に捉えているのは「神」ではなく、「物」かもしれません。
私たちの心を映し出す問いかけ
この世界には、視覚・聴覚・触覚・味覚を刺激する多くの誘惑があります。目に見えるものだけではなく、「愛情」「成功」「地位」「尊敬」「力」「支配力」など、形のないものもまた、私たちを引きつけます。それらは「人生を豊かにし、喜びをもたらすもの」のように思えます。もしそれが手に入らなければ、不満や悲しみを感じるかもしれません。
私たちは「もし〇〇があれば、私の人生は満たされるのに…」と考えてしまうことがあります。しかし、「もし〇〇があれば」と言ったとき、その「〇〇」こそが、今私たちが生きる目的になってしまっているのです。
ここで、自分の心を探るための問いかけをしてみましょう。
-いつ神を最も身近に感じるか?
-いつ「神は私を愛している!」と最も強く確信するか?
-どんな時に「神の子であること」に最も感謝するか?
-神との関係が最も喜びに満ちるのはどんな時か?
-神が何をしてくれたら、私は本当に満足するのか?
-どんな時に、神の愛を疑いたくなるか?
-神の誠実さを信じるのが最も難しくなるのはどんな時か?
-他の人をうらやみ、「神はひいきしているのでは?」と思うのはどんな時か?
-神への賛美が空虚に感じられるのはどんな時か?
-祈りが聞かれていないと感じるのはどんな時か?
-神が私にどんなことをしてくれれば、本当の喜びを感じるのか?
私は、これらの問いかけをすることで、自分の心の奥底にある思いを突きつけられます。自分では「私は神を愛している」と思っていても、もしかすると「神の祝福」を愛しているだけかもしれません。
本当に私は、神が「いつも善であり、善を行い、善を与えてくださる方」だと信じているでしょうか? たとえ豊かであっても、欠乏の中にあっても、神の愛と満足だけで生きることができるでしょうか? 神が何かを与えなかったとき、私は「神は本当に良い方なのか?」と疑ってしまうでしょうか?
神は、私たちを偶像から解放するために、御子イエス・キリストを送ってくださいました。神は私たちの弱さに驚いたり、失望したりすることはありません。むしろ、愛と恵みをもって、私たちのもとに来てくださるのです。
今日、神の愛に満ちた警告を聞いてください。もしかすると、「偶像崇拝」の罪を告白することこそが、真の礼拝へと導かれる第一歩かもしれません。
黙想のための質問------------------
1.これまで最も神を身近に感じたのはどんな時か? また、神が与えてくださった「贈り物」に心を奪われてしまった経験はあるか?
神が与えてくださったものに心を奪われる瞬間というのはあるのですが、それは断片的な感情のようなもので、その嬉しさまでダメだと言うなら、この筆者は少し極端であると思います。そうではなくて、その物とか金を目的にした信仰というのは偶像礼拝だということをしっかり理解しなくてはなりません。これは警告ですね。
2.神ご自身に満足する信仰をどのように育てることができるか? それと同時に、神の賜物に感謝する心を持つにはどうしたらよいか?
与えられる権利も資格もない物や金が与えられる事について、そこで考えを止めることが無いようにしないといけないと思います。それに込められた神からのメッセージを探求し続けなければ、与えられることも、与えられないことも、虚しいものになってしまいます。
そして、私は大丈夫、と考えることもまた危険だと思います。今日のうちにも信仰が崩れ去る危険性を秘めている人間であることをわかっておかなくてはなりません。自分の足で神から遠ざかる危険性ということです。
3.「礼拝しているようで、実は礼拝していない」部分は、自分の心の中にあるか? それはどこか? どのように告白できるか?
何か、物とか金とか地位を礼拝するために、そのプロバイダーとしての神を礼拝している・・・というような事は今のところありません。しかし、私はとても危険な性格を持っていると思います。それは、人と比べてどうか、という視点が未だに沸々と存在しているからです。誰かの良い暮らしを羨む心です。ただ、私もそうなりたいから神を礼拝するというような事はありません。でもこれ、今のところ、であるとずっと戒め続けなければなりません。
詩篇 50:8-15 を読んでみましょう。神は「空虚な捧げ物」ではなく、私たちとの真の関係を求めておられます。
詩編50
8 わたしがあなたを責めるのは、あなたのいけにえのゆえではない。あなたの燔祭はいつもわたしの前にある。
9 わたしはあなたの家から雄牛を取らない。またあなたのおりから雄やぎを取らない。
10 林のすべての獣はわたしのもの、丘の上の千々の家畜もわたしのものである。
11 わたしは空の鳥をことごとく知っている。野に動くすべてのものはわたしのものである。
12 たといわたしは飢えても、あなたに告げない、世界とその中に満ちるものとはわたしのものだからである。
13 わたしは雄牛の肉を食べ、雄やぎの血を飲むだろうか。
14 感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き者に果せ。
15 悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」。
告白というか、それはだめだろ、と思っている事を告白するのですが、教会内で行われているケースがあるマルチビジネスや保険の営業です。
何か水のマルチ商法を、まるで神が与えてくださった、かのような文句で広めている人たちに出くわしました。彼らは一見、とてもすばらしい信仰者なのですが、人の価値を営業成果で値踏みしているところとか、ビジネスの拡大のためにミニストリーをやっているようなところがあり、とても恐ろしくなったことがあります。
一人一人の信仰の問題ではあります。しかし、そういう危険、神から信仰者を遠ざけてしまう危険に晒している可能性を、よく見つめてもらいたいです。
あなたの目のちりを取らせてください、と言ってるのと同じですから、私は私自身の目の梁をしっかりと見つめるべきです。
しかし、受難節のQTを通じて、教会が何であるかを特に教えられていますから、こういう思いが溢れてきました。