あなたの罪を言い訳し、否定し、または軽く扱うことは、
キリスト・イエスの恵みを必要としていないと自分に言い聞かせることと同じです。

ビルとジェニーはまたしても壁にぶつかっていました。

些細な誤解がエスカレートし、ひどい口論に発展し、罵り合い、信頼が崩壊しました。家の中の空気は緊張に包まれ、ぎこちない沈黙が二人を押しつぶしそうでした。

そのひどい喧嘩から三日が経っても、二人の間に和解の兆しはありませんでした。ビルはその三日間、自分はただジェニーの攻撃に対して防御していただけで、問題はジェニーにあるのだと考えていました。一方、ジェニーは自分は感情的に虐げられた被害者だと信じていました。

二人とも自分の罪を認めようとせず、それを神にも互いにも告白しようとはしませんでした。それぞれが相手を非難しながら、自分の態度や行動を正当化し、状況を考えれば自分のしたことはそれほど悪くないと自己弁護していました。

これは彼らにとって何度も繰り返されるおなじみの光景でした。真の告白がなされることはほとんどなく、それでも彼らは何とか関係を続けていき、次の破滅的な争いへと突き進んでいきました。

しかし、結婚生活に与えたダメージ以上に悲惨なのは、彼らがキリストの救い、赦し、そして力強い恵みを拒んでいたことでした。

自分の罪を認めず、それを告白し、救い主に赦しと助けを求めなかったために、二人は恵みと愛に成長することができませんでした。彼らの結婚は罪と痛みの悪循環にはまり込んでいました。希望は皮肉へと変わり、防衛的な態度は信頼に取って代わり、繰り返される痛みがかつては優しく愛情深かった心を固く閉ざしてしまいました。

自分に助けが必要だと思わなければ、人は決して助けを求めません。必要性を感じないものを切望することはありません。

私たちは、神学的には十字架を信仰の中心に据えていながら、実際にはこの愛と恵みの犠牲を必要としないかのように生きてしまうことがあるのです。信者である私たちは罪を犯すとき、良心の呵責を覚えます。これは聖霊による恵み深い戒めであり、自分の行いが間違っているというサインです。そして、この戒めに対する反応の仕方は主に四つあります。それぞれの反応を、十字架が私たちに求める自己認識と照らし合わせて考えてみましょう。

1. 言い訳する
自分が間違っていたことを認め、それが自分の責任であると認識するのは難しいものです。罪の意識を軽減するために、自分の行動の原因を他の誰かや何かのせいにしてしまうのは簡単です。言い訳がもっともらしく思えるのは、私たちが堕落した世界に生きており、周囲には多くの問題が存在するからです。

私たちは、不完全な人々の中で生活しています。彼らは常に正しいことを言ったり行ったりするわけではなく、常に良い態度を取るわけでもなく、約束を守らないこともあり、私たちの最善を常に考えているわけではありません。彼らも私たちと同じように、神の救いの恵みを必要とする者たちです。

また、私たちの住む社会にはさまざまな制度的な欠陥があります。近隣、交通、職場、政府、教育、買い物先など、どこを見ても完全な場所はありません。この世界は楽園ではなく、いつか来る楽園のようには機能していないのです。しかし、そのような状況の中でも、神はその恵みによって私たちを導き、変えてくださるのです。

2. 否定する
過去の出来事を都合よく書き換え、自分が実際よりも義にかなっていたかのように振る舞う誘惑があります。しかし、罪を否定するということは、結局、罪そのものを完全に否定することにつながります。

罪を犯していないと言うことは、自分の問題を認める余地を完全になくし、変わる必要性を感じさせず、自己満足に陥らせます。罪を否定することは、神との関係を深めることにはつながらず、人間関係にも何の良い影響も与えません。

3. 軽く扱う
罪を逃れるもう一つの方法は、それを軽く扱うことです。自分の罪の大きさ、重要性、影響を過小評価すると、罪の本質がぼやけ、罪を犯したことの重大さを感じなくなります。

もし罪がそれほど深刻なものではないのなら、神が罪人に与える恵みも必要なくなってしまいます。罪を小さく見積もることは、神の驚くべき恵みの価値を低く見積もることと同じです。

4. 告白する
神の前で間違ったことをしたと認めるとき、唯一の正しい選択肢は告白することです。もし罪が言い訳でき、否定でき、大したことがないのであれば、イエス・キリストの十字架の犠牲は必要なかったことになってしまいます。

告白とは、言い訳や責任転嫁をせずに、自分の言葉と行動に対する責任を認めることです。告白を通して、神の臨在、約束、そして恵みをより深く理解するようになります。告白は、より謙虚で正直で親しみやすく、愛に満ちた人間関係への入り口です。罪を告白することを恐れる必要はありません。なぜなら、あなたについて知られたり暴かれたりすることのすべてが、すでにイエスの血によって覆われているからです。

この季節、キリストが私たちのために捧げられた犠牲を振り返るとき、聖霊があなたの心を示し、罪を認識させるならば、言い訳や否定、軽視することで神の恵みから逃げるのではなく、救い主のもとに走っていきましょう。「自分のそむきを隠している者は栄えることができない。しかし、それを告白し、捨てる者は憐れみを受ける」(箴言28:13)。

黙想の質問

1.あなたは神を必要としていることを口では認めているかもしれません。しかし、あなたの行動や態度、祈りの生活はそれを裏付けていますか?

 

この朝の時間、私は神にすがりついています。ところが、支度をして家を出たり仕事に取りかかったりすると、また違う自分の一面が出てきます。朝に時間に涙を流して告白したり、感謝したことが、まるで夢の中での出来事のように、相変わらずの罪をおかしてしまうことがあります。

すぐに「これは罪だ」と気づくこと、罪だとわかっていながらそれを実行に移すことがあります。神が必要だからすがりついているのに、自分から離れようとする時間が1日の中で何度も起きるわけです。

だから、この朝のQTはとても大事な時間になってきます。

2.あなたは罪を指摘されたとき、言い訳、否定、軽視、告白のどの反応をすることが多いですか?その反応の要因となるものは何でしょうか?

 

年齢がいってくると、色々な”技”を取得してきます。

誰かに罪、罪性を指摘されたとしても、私はそれに対して攻撃的な態度は取りません。その人が、私に対しての指摘で満足がいくような回答をして見せます。

しかし、私の心の中では、素直にその指摘を受け入れるようなことはしていません。つまり、否定と軽視が起きています。

 

それは、人間に指摘されたくない、という思いがあるからです。

先週のこの受難節QTで罪の指摘について述べられたものがありました。

あれを教会の中でわかちあったのですが、皆、指摘することもされることも嫌だと言いました。この罪の指摘については、腫れ物に触るような感覚を持っている人が多いことがわかりました。

3.言い訳、否定、軽視、告白のそれぞれが、どのような結果を生んできたかを考えてみましょう。

 

今日のビルとジェニー事例は、とてもよくわかります。

夫婦の関係は、自分そのものの姿をさらけ出している場合が多くなるでしょうから、お互いの素の感情がぶつかり合います。

つい先日、夏にある計画のことで、家内と激しい論争になりました。そういう事ははじめではありませんから、そういう状況がどのように推移するのかは、ある程度読めてきます。そうすると、私は先述の”技”に走るのです。

ただ、家内との間では、それが”技”であることを宣言してから、摩擦が大きくならないような言葉で対処しはじめます。本心ではない事を前置きして、家内との関係がおかしくならないようにするためにと、冷静に状況を捉え直してベストな選択を探したいがために、私の方から謝罪を申し出するのです。「本心ではないごめんね」をするわけです。

家内や身内を含めた人間同士の関係なら、そういう事を切り口にしながら、やりくりで関係性を保つことが出来ますし、そういうものだと思います。

 

しかし、神との関係は、これではだめですよね。

神との関係は、罪の前では本来は拒絶でしかないものを、こうして今日も近づくことを許されていることは、まずめぐみによるものだと理解すべきだときづかされます。神は怒りに遅いお方です。

 

神は愛なり、と聖書は言いますが、同じ聖書が、神が罪に対して滅びで報いられる方であると言っています。この一見矛盾する神のご性質をしっかりと受け止めなくてはいけないと思います。そうすることで、人に対しての人なりの”技”ではなく、ジーザスのみに罪の赦しの道があること、滅びではなく生かされる道を見出すことが出来てきます。自分ではどうすることも出来ないのですから、もう、ただ告白と赦しを願う他ありません。

詩篇62:5-8を読んで、へりくだって神の前に祈りましょう。

5 わが魂はもだしてただ神をまつ。わが望みは神から来るからである。
6 神こそわが岩、わが救、わが高きやぐらである。わたしは動かされることはない。
7 わが救とわが誉とは神にある。神はわが力の岩、わが避け所である。
8 民よ、いかなる時にも神に信頼せよ。そのみ前にあなたがたの心を注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。[セラ

 

私は40歳を前にしてジーザスを受け入れてクリスチャンとなったのですが、幸いなことに、10代にして既にプロテスタント系の学校に行かせてもらっていました。

その学校では、週に1回は全校集会としての合同礼拝があるのですが、なんとそれ以外の日も毎朝放送による礼拝が行われて、賛美歌を歌い、みことばを頂き、校長先生などが短いメッセージもしてくれていました。今思うと、天の前味は既にあの頃から与えられていたのだなあと思います。

さすがに毎日賛美を歌わずとも聞いていると、私の脳裏に染みついて離れないものがいくつかあるのです。その一つは「神はわがやぐら」。今日のみことばとは少し離れた賛美歌ですが、とてもよく覚えています。

 

この神に信頼を置いて全てを告白していきたいと思います。私は私の”技”では救われません。そのような対応でうやむやにしてきた自分の罪を、まっすぐに告白すべきであることがよくわかります。