あなたと私には、贖い主だけが解決することのできる3つの問題があります。
「神よ、私を憐れんでください。
あなたの変わることのない愛に従って、
あなたの豊かな憐れみによって
私の背きをぬぐい去ってください。
私の咎から徹底的に洗い清め、
私の罪から私を清めてください。
私は自分の背きを知っています。
私の罪はいつも私の前にあります。
私は、あなたに、ただあなたに対して罪を犯し、
あなたの目の前で悪を行いました。
それゆえ、あなたが宣告されるとき、
あなたは正しく、
あなたの裁きは正当です。
見よ、私は咎の中に生まれ、
罪のうちに母が私を身ごもりました。
見よ、あなたは内なる誠実を喜ばれ、
ひそかなところで私に知恵を教えられます。
ヒソプで私を清めてください。そうすれば私は清くなります。
私を洗ってください。そうすれば私は雪よりも白くなります。
私に喜びと楽しみを聞かせてください。
あなたが砕かれた骨が喜ぶようにしてください。
私の罪から御顔を隠し、
私のすべての咎をぬぐい去ってください。
神よ、私に清い心を創造し、
私のうちに正しい霊を新しくしてください。
私をあなたの御前から投げ捨てず、
あなたの聖なる御霊を私から取り去らないでください。
あなたの救いの喜びを私に戻し、
喜んで従う霊で私を支えてください。
そうすれば私は背く者にあなたの道を教え、
罪人があなたのもとに帰るでしょう。
神よ、私の救いの神よ、流血の罪から私を救い出してください。
そうすれば私の舌はあなたの義を声高に歌うでしょう。
主よ、私の唇を開いてください。
そうすれば私の口はあなたの誉れを告げ知らせます。
あなたはいけにえを喜ばれません。もしそうなら私はそれをささげます。
あなたは焼き尽くす捧げ物を喜ばれません。
神へのいけにえは砕かれた霊です。
砕かれた悔いた心を神よ、あなたは侮られません。」(詩篇51:1-17)
詩篇51は、聖書の中でも最も重要な祈りの一つです。それは、誰もが模範とすべき祈りであり、真の告白の心を表しています。主に選ばれたしもべであるダビデ王は、自らの立場、権力、資源を利用して、他の男の妻を奪い、その男を殺害するという罪を犯しました。この詩篇は、真に悔いた心から出る告白とはどのようなものかを私たちに示しています。
この告白の特徴は、最初の節から見て取ることができます。ダビデは、自分の問題が単なる一度の罪ではなく、それよりもはるかに深刻で大きなものであることをすぐに認めています。それはなぜでしょうか? それは、ダビデが自分の状態を表すために使用している3つの言葉、「背き(トランスグレッション)」、「咎(イニクイティ)」、「罪(シン)」からわかります。これらの言葉は単なる同義語ではなく、罪の本質の異なる側面を詳しく説明するものです。罪は三重の問題であり、単なる過ちではありません。一つずつ見ていきましょう。
背き(トランスグレッション)
罪とは、単なる弱さによって神の目に悪とされることを行うことではありません。確かに、私たちは皆、そのような弱さを経験します。しかし、「背き」とは、誘惑に引き寄せられやすい内なる傾向や、罪との戦いにおいて私たちを弱くする何かを指します。背きとは、神が定めた境界線を意図的に踏み越えることです。それは、「立ち入り禁止」の看板を見てもなお、向こう側にあるものが欲しくてフェンスを乗り越えるようなものです。背きとは、「駐車禁止」の場所にわざと駐車するようなものであり、自分の都合を優先して神の命令に従わないことを意味します。
背きとは、反逆の精神です。それは、自分を神の立場に置き、自分でルールを決めることです。それは、神の道よりも自分の道を優先したいという欲求です。真の告白は、単なる弱さを認めるだけではなく、自分の心の中にある反逆の精神をも認めるものです。
咎(イニクイティ)
私の中には、単なる反逆の精神以上のものが存在しています。それは、私を反逆者にしてしまうものです。テトス1:15はこう言っています。「清い人にはすべてのものが清いが、汚れた不信仰な人には何一つ清いものがない。その人の思いと良心までが汚れているからである。」
罪は私たちの心を汚します。咎とは、道徳的な汚れのことです。それは、汚染された水のようなものであり、一見すると問題がないように見えても、有害な要素が含まれているのです。私たちは皆、心の中にこの汚れを抱えています。
罪(シン)
最後に、罪とは神の義なる基準に達しないことを意味します。それは、何度も矢を射っても的に届かないようなものです。罪の告白には、助けを求める叫びが含まれています。これは、自分の弱さを認め、自分ではどうすることもできない罪から救い出してくださる神の恵みに頼ることを意味します。
この個人的な反省と告白の季節に、ダビデのように深く広い告白を行いましょう。そして、神が悔いた心を決して退けられないという約束に慰めを見出しましょう。
黙想の質問------------------
1.この1週間の間に、どのように神の律法に背きましたか?
背きによるものがありました。みことばやこのQTで示されていたものがあったのに、誘惑を断ち切ることが出来ませんでした。
自分が本当にこれはたちが悪いなと思う事は、今日のこのメッセージに表わされている通りです。私は、立ち入り禁止と書いてある看板を横目にして侵入するような性質を持っています。
そのことについて、その深さ、執拗さ、持続性とでも言えばよいのでしょうか、もう繰り返し起こってしまうわけです。ここに自分の正体がありますし、それは、神を求めなければならない根拠でもあります。
2.最近、自分の内なる汚れを告白したのはいつですか?
この告白は、私は結構するんです。人前ですることもあります。しかし、祈りの時間の時に、神に向かって告白します。小さくとも声に出すことは意味があると思います。自分がやらかしたことが、より鮮明に具体的にされるからです。
3.あなたの罪の告白は助けを求める叫びとなっていますか? その理由は?
助けを求める叫び、ですね。まさに。これほどよくしてもらっている神に対して、私は時に喜ばれる者でありたいと心から願って言動を起こします。しかし、一方では神の目から避けようとし、そんな無謀なことを頭に想定しながら誘惑の深みに陥ってしまうわけです。この繰り返しで、心も体も疲弊します。自己嫌悪、不安や恐れなどに取り囲まれるからです。しかし、私はそれはそれで自分の精一杯の信仰であるとも考えています。ですから、嘆きでもって神にまた向かうわけです。
詩篇51に立ち戻り、この祈りを再び祈りの手本としましょう。
背き、咎、罪の意味を理解し、告白の時をより深めるために用いましょう。
以前、ゲストメッセンジャーとして来てくださった東京の牧師さんがこの詩編51について語ってくださったことは、今の私の信仰の骨組みの一つとなっています。それは「砕かれたたましいを捧げる」ということです。
この世での礼拝が、礼拝式の様式に従って進められる儀式形態のことだけを指すなら、私は偶像礼拝に近いものになりかねないと思います。素晴らしい賛美も、歌の騒ぎ、になってしまうということです。
その牧師さんがご自身のエピソードを踏まえて説かれた「砕かれたたましい」とは、悔い改めたたましいのことで、これを御前にもっていくことを礼拝と言うのではないか、というものでした。
くだかれたたましい。くだかれよ、です。
今、私にはくだかれるべき事柄がライブに存在しています。ささげものとして、くだかれたいと思います。