私たちの贖いの物語は、神のとどまることのない主権の歴史的証拠です。
驚きは、私たちすべての人生においてごく普通の一部です。私たちは何度も何度も予測不能な出来事に出くわします。予期せぬことに不意を突かれ、心の準備ができていないまま、それを迎えることになります。しかし、贖いの物語は、神が私たちとは違うお方であることを明確に示しています。神は私たちの必要を見抜き、それを満たすための計画を立てられました。そして、その計画はすべて神のご計画通りに成し遂げられたのです。
時の広大な流れの中で、無数の人々、そしてさまざまな場所が関わる中でも、神は一度たりとも驚かれることはなく、不意を突かれることもなく、常に支配しておられました。キリストが十字架へと進まれた歩みは、私たちに「安らぎと希望は、自分が知っていることではなく、神が統べ治めておられることにある」ことを改めて思い起こさせます。驚きのない神が、私たちを再び驚かされることはあるでしょう。しかし、それでも大丈夫なのです。なぜなら、私たちが知らないことを神は知っておられ、私たちが制御できないことを神は完全に制御しておられるからです。だからこそ、私たちは予測不能な出来事や驚きの連続の中でも、恐れることなく生きることができるのです。
以下の言葉が、あなたが驚きの中にあっても安らぎを覚える助けとなりますように。
再び驚かされる。
静かな会話が突如として激しい議論へと発展する。
再び驚かされる。
健康が突然損なわれる。
再び驚かされる。
愛する人を思いがけず失う。
再び驚かされる。
長年信頼していた指導者が道を踏み外す。
再び驚かされる。
予期せぬ贈り物が必要を満たす。
再び驚かされる。
思いがけずチャンスの扉が大きく開かれる。
再び驚かされる。
眠れぬ夜が安息を奪い去る。
再び驚かされる。
突然の対立が平和を打ち砕く。
再び驚かされる。
緊急事態が一日の予定を覆す。
再び驚かされる。
神の備えが計画を前進させる。
再び驚かされる。
突然の謎が混乱を引き起こす。
再び驚かされる。
恵みの大きさに圧倒される。
それは、
私の人生の物語。
私は再び驚かされる
何度も何度も。
再び驚かされる。
そして、再び思い出す。
何度も何度も。
私が主権者ではないことを。
私は驚かされるが、恐れはしない。
私の驚き、
私の見当違いな期待、
私が抱く謎、
私の無力さ、
それらは決して、
私の世界が、
私の人生が、
私の現在が、
私の未来が、
制御不能であることを意味しない。
私はこれからも
何度も何度も驚かされるだろう。
しかし、私は恐れない。
なぜなら、
あなたは、主よ、決して驚かれることのないお方だから。
ハッピーエンディングを知っているドラマを見ているようなもの
黙想のための質問----------------
1. あなたは驚かされることが好きですか?なぜですか?驚きはあなたにどのような感情を引き起こしますか?
あまり好きではないですね。子供の頃の経験から来るものなのか、そういう性格なのかはわかりませんが。
父親がかなりの短気で、家にいてる時もしょっちゅう急に怒りをぶちまけだして大声で怒鳴るような人でした。ですから、私は父が仕事から家に帰って来ると、いつも台所などに避難していました。外でも同じでした。父と誰かがにこやかに話が進んでいるなと思っていたら、突然ブチギレる、ということが結構ありました。ところが、父は私を連れ出したがりました。私は車に乗せられると、そういう父のブチギレが起きないかと常時はらはらしていますから、いつも車酔いしていたんです。今でも、あの車とタバコの混じった臭いを嗅ぐと吐気がします。これはもう、驚きたくないという恐れがもたらすパニックのようなものです。父の問題と言えるかも知れませんが、私は子供の頃からそういう性格をしているんです。驚きたくない、という恐れを強く持っているんだと思います。これは今も同じです。
2. これまでに、人生の中でどのような驚きに出会いましたか?また、神に驚かされた経験はありますか?
ネガティブな驚きがそれなりにあります。特に私が20代の頃まで。ポジティブなものもあったのでしょうが、すぐに思い出せることというのは、どれもネガティブなものです。
その中でも、最低の驚きに接したのは、実は福音を初めて聞いて受け入れてからすぐに起きたことです。驚きというか激痛のようなものでしたが、私はこれも神からのものであると今はわかります。懲らしめではなく、変化に向けた最善がなされたのだとわかります。なぜならそのことは、私がジーザスを信じる土台となりました。そのことによって、私の人生のレールは行先が変わりました。正確に言うと、レールが違う方向に向き出したのではなく、違うレールに飛び移ることになったんです。
しかし神は、痛みを伴う驚きばかりを与えられるのではなく、いっきに喜びで満たされる驚きも与えてくれました。
こんな事あるか!?ということが、少なくとも2度は起きました。
ジーザスを信じる者の人生は大冒険のようですよ。
3. 神の主権という視点は、人生の予期せぬ出来事をどのように受け止める助けになるでしょうか?
また、人生の不確実性の中でも、喜びと希望をもって生きるために、どのようなことができるでしょうか?
ジーザスを信じて生きていると、一種の習性が育ってくるのがわかります。
それは、何かにつけて「神だ!」と思うことです。
大きくも小さくも良い驚きが起きると、感謝で返したい、という気持ちが湧いてきます。
悪い驚きにはどうかと言うと、これが”結論ではない”と考えるようになります。これは”プロセス”だ、と。
もちろん、そういう習性を越えての「まさか!」という衝撃を神は与えるお方だと思います。それはクーデタとか革命のようなものであり、そうする事でしか現状打破が出来ない時に起きるものなのかも知れません。もちろん、神のご計画の通りにみちびかれる為の、やはり、”プロセス”ということです。
ネガティブな驚き、ということで私がいつも、常時、思うのはヨブです。
そして、そのヨブ記をもって信仰を持ったと言う、拉致被害者の親御さんであられる横田早紀江さんのお証がとても響くのです。
あのヨブに突如として起こった最悪の状況をしても神はそこに関与されていて、ヨブを愛しておられたという事実です。
神は一人一人にご計画をお持ちであると共に、プロセスをお持ちであることを覚えていれば、驚きや恐れがそれらで終わることがありません。
これは、とある詩からのイメージですが、いつか自分の人生を振り返った時「あの苦しみ悶えた出来事でさえも、確かに最善であった」ことを知るのだと思っています。思うようにしています。
今、このQTを通して思う事は、私には責任があるのではないかということです。私が見せられたことは、普通ではないと思います。大袈裟に表現しなくとも、私がこうして経験させられたことはインパクトのあることです。今日、特に強く神のメッセージを感じています。やはりプロセスなのだなあという。
イザヤ書46:5-13を読み、時には驚くべきものである神の主権に、勇気と慰めを見いだしましょう。
イザヤ46:5-13
5 あなたがたは、わたしをだれにたぐい、だれと等しくし、だれにくらべ、かつなぞらえようとするのか。
6 彼らは袋からこがねを注ぎ出し、はかりをもって、しろがねをはかり、金細工人を雇って、それを神に造らせ、これにひれ伏して拝む。
7 彼らはこれをもたげて肩に載せ、持って行って、その所に置き、そこに立たせる。これはその所から動くことができない。人がこれに呼ばわっても答えることができない。また彼をその悩みから救うことができない。
8 あなたがたはこの事をおぼえ、よく考えよ。そむける者よ、この事を心にとめよ、
9 いにしえよりこのかたの事をおぼえよ。わたしは神である、わたしのほかに神はない。わたしは神である、わたしと等しい者はない。
10 わたしは終りの事を初めから告げ、まだなされない事を昔から告げて言う、『わたしの計りごとは必ず成り、わが目的をことごとくなし遂げる』と。
11 わたしは東から猛禽を招き、遠い国からわが計りごとを行う人を招く。わたしはこの事を語ったゆえ、必ずこさせる。わたしはこの事をはかったゆえ、必ず行う。
12 心をかたくなにして、救に遠い者よ、わたしに聞け。
13 わたしはわが救を近づかせるゆえ、その来ることは遠くない。わが救はおそくない。わたしは救をシオンに与え、わが栄光をイスラエルに与える」。