18 もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい

19 もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。

20 しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。

21 しかし彼らは、わたしの名のゆえに、あなたがたに対してそれらのことをみな行います。それは彼らがわたしを遣わした方を知らないからです。

22 もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。しかし今では、その罪について弁解の余地はありません。

23 わたしを憎んでいる者は、わたしの父をも憎んでいるのです。

24 もしわたしが、ほかのだれも行ったことのないわざを、彼らの間で行わなかったのなら、彼らには罪がなかったでしょう。しかし今、彼らはわたしをも、わたしの父をも見て、そのうえで憎んだのです。

25 これは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ』と彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。

26 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。
27 あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです

 

弟子たちが、実はジーザスに選ばれていたことが明かされましたが、また繰り返されています。

26節では「初めからわたしといっしょにいた」とされていますが、これは弟子たちのことだとすると違和感がありますが、御霊、聖霊のことであり、その助け主である聖霊を受けた弟子たちとするなら、それは、三位一体の一つの位、それがどのように人と関連するのかがわかってきます。確かに、初めから、ジーザスを共におられた聖霊です。

その聖霊を下すところとして、弟子たちがあらかじめ選ばれていたというのもわかる気がしてきます。

 

自分のことを少し探ってみますと、

私は、神から選ばれているのでしょうか。それとも、私が神を選んだのでしょうか。

 

現状の結論からすると、選ばれていると思います。

神の選びということを言うと、傲慢なやつだとか言われそうですが、選ばれていなければどうして信じることが出来たか、と思えます。

 

仮にそうだとして、選びの基準は何なのかなあ、と思います。

優れた才能ではないはずです。家柄とか、行いとか、そういうもののが良かったからでは絶対にありません。

自慢したがる性格ですが、一方では目立つのも嫌、など、自分でも自分の人間性を憎むほど嫌なところはあります。

 

神は、人類全体への祝福と救いのパイプ役としてイスラエルを選ばれたと言えるのですが、その理由について「数が多かったからではない」そしてむしろ「もっとも少なかったからだ」と聖書は語ります。つまり、イスラエルはその弱弱しさの故の選びということになります。

 

時系列で整理すると、もともとは神はアブラハムを選ばれて、その孫にあたるヤコブがイスラエルと呼ばれるようになったのですから、意図して神はイスラエルをそのように弱弱しくされていたとか、弱弱しくなることがわかっていたと解釈してもよいと思いますが、いずれにしても、立派さが選びの基準ではないことがわかります。

 

ですから、神の選びだ!と大声で叫ぶことは、この世の価値基準からすると「私は弱くて情けない者です」と言っているようなものだと思います。

それは言い過ぎかも知れませんが、誇示して見せるようなものではなく、わきまえとしてこの世に生きる自分自身に課し続けるものであるように思います。

 

というのは、ここまで13年間聖書を読む限り、弱弱しさのゆえに神に選ばれるというのは、人生を「どれにしようかな」と楽しみながら歩くというよりも、「もうこれしかないな」という具合に、どんどん狭められた道を歩くようなものだからです。

とすると、わきまえと言うのはまだ余裕のある話ですが、どちらかと言えば「あきらめ」に近いのかも知れません。

 

その道というのは、イスラエルと同じです。「おれはパイプなのだ」というあきらめです。

行く道無く、パイプとして生きる他ないなんて、普通に考えると悲壮な話なのですが、それは世の価値観で見た時の話。

確たる天へと続く道なのですから、あきらめの一方で、そこを歩く喜びに満たされ続けることになります。

その喜びの正体と強く関連しているのが、三位一体のひとつの位、聖霊でしょう。

 

責任感を感じますね。

私はペテロたち弟子とは違うのですが、弟子と同じ招きを受けた選ばれた者です。

一つの道を歩く責任は同じだと思うからです。

今日、また一つ何か一歩を踏み出そうと思います。もうそこから逃げられないなら、前に進む方がよいですから。