12 その翌日、祭りに来ていた大ぜいの人の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、
13 しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」
14 イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。
15 「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」
16 初め、弟子たちはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行ったことを、彼らは思い出した。
17 イエスがラザロを墓から呼び出し、死人の中からよみがえらせたときにイエスといっしょにいた大ぜいの人々は、そのことのあかしをした。
18 そのために群集もイエスを出迎えた。イエスがこのしるしを行われたことを聞いたからである。
19 そこで、パリサイ人たちは互いに言った。「どうしたのだ。何一つうまくいっていない。見なさい。世はあげてあの人のあとについて行ってしまった。」
主の祈りというものがありますが、あの中で最も印象的で思いが注がれるのは、
”御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。”
です。
ジーザスを信じて永遠のいのちが与えられるということは、この世で生を終えた後、尚もいのちが与えられながらプロセスを経、やがては物理的に復活させてくださって神のおられるところで永遠に住まうのだなあ、というように思っています。これは最上級に素晴らしいことです。
しかし、ジーザスが弟子に教えられたこの主の祈りにこのようにあるのですから、上述のような永遠のいのちについてのビジョンはもっと拡大・修正されるべきでしょう。
永遠のいのちとは、死後に起こる死後の世界のことだけを指すのではないということです。
御国→やがて到達すると思っている神のおられるところについて、「地にもなさせたまえ」と祈りなさいとジーザスは言われているからです。
そして、ジーザスは確かに、その天と地の接点とも言うべきご存在として来られていたことが益々わかってきます。
それがついに公になったのが、このエルサレム入場ではないかと思うのです。
「あなたの王」→「私の王!」が、いよいよ小ロバに乗って入場されたのです。つまり、一時的ではあるのですが、天がここから地にはっきりとあらわれているところではないのか、と思うのです。
ジーザスはもうおられないのかと言うと、いえ、今もおられて不思議な働きをされています。
「また来る」と言われて、その時の様子まで聖書には記されているわけですから、恐らく今は人の形は取っておられません。
ですから、私には見ることが出来ないのですが、確かにおられます。
そして、私が重要だと感じているのは、今や聖霊を頂いて私や主にある兄弟たち姉妹たちが、天と地の接点として作用し得るということです。ジーザスは見えないけれど、クリスチャンがその名代のような存在になり得るということだと思います。
もちろん、例えば私はジーザスではありませんから、不思議な能力を次々と見せるというものではありません。
ジーザスをまだ知らない人に伝えるという報道官のようなものです。
ジーザスのエルサレム入場が、もしも天が地に来たことのあらわれだとして、全く違った形ではありますが、今もそれは可能になります。
それが教会だと言えませんでしょうか。もちろんそれは一時的な御国ですが、そんな気がしますね。
ですから、教会時代と言われる現代、あの祈りは続けていく必要があります。
心込めて、主の祈りを捧げたいと思います。