14 しかし、祭りもすでに中ごろになったとき、イエスは宮に上って教え始められた。

●弟子たちに先に祭りに行かせて、ジーザスは一人で出向かれた。なぜだろうか。

15 ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」

●学問があるかないかが、学校で学んでいるかどうかで判断されるのはわかるのだが、それが権威に結びついているところが今も昔もあまり変わらない人の価値観だなと思う。

16 そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。

17 だれでも神のみこころを行おうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。

18 自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません

●自分の栄光を求めて歩き回る毎日なんだな結局のところ。それ、本当に同じクリスチャンでも生き方を大きく分けてる。フルタイムに神の栄光を求めることをいつも信念レベルで持っていることって難しい。不正が全く無い状態になるということも、まだ私には難しいと思う。

19 モーセがあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも、律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。」

●モーセの律法って何か、ということ。これ、特に指導者に言ってるのだから、祭りに集まった大勢の人たちの中で顔に泥を塗る発言。ジーザスはこのために来られた。実際、ユダヤ人指導層はジーザスを殺害しようとたくらんでいた。

20 群集は答えた。「あなたは悪霊につかれています。だれがあなたを殺そうとしているのですか。

21 イエスは彼らに答えて言われた。「わたしは一つのわざをしました。それであなたがたはみな驚いています。

22 モーセはこのためにあなたがたに割礼を与えました。―ただし、それはモーセから始まったのではなく、父祖たちからです―それで、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。

●割礼は神がアブラハム契約で示されたもので、モーセを通じた律法を起源とするものではない。

23 もし、人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹を立てるのですか。

●つまり、指導層のご都合で律法を取り扱っているだけであり、割礼や安息日の根拠が何であるかを無視しているということ。これは言わば神無き律法運用の指摘であり、天地がひっくりかえるほどの糾弾と言える。

24 うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。

 

今日のみことばからは、新相に近づく、ということが示されているように思いました。

 

今朝は朝から些細なことで家内とけんかになり、何か口を開けばお互い嫌味のような事を言い合うような状況となりました。

 

家内がどうとかは明確にわかりませんが、私については、明らかに自分の栄光を追っていたのだなと思います。

自分の栄光のために、そのような相手を落として自分を上げるというようなみにくい発言をしていたのだとわかってきます。

新相はどこにあるのかと言うと、深いところにある夫婦関係にあるように思います。

 

私たちは今、はるばる地球を半周するほど遠いところに来て生活を営んでいますが、ここまで来たのはなんでなの、と。

地道にお金をためて果たした長年の夢というわけでもなく、家内側のあるきっかけから、負担なく行かせてもらっています。

これは、神が私たち夫婦に与えてくださったものとしか思えません。

 

しかも現地では、家内や私の仕事に全く関連しない、つまり、この地に私たちが来ることと全く無関係である、クリスチャンや教会、宣教団体の人たちに手厚く迎え入れられています。

 

私が自分の栄光のために一生懸命になる理由がないのです。

私たち夫婦が一体でお仕えする理由は山ほどあります。理由と言うか、神への応答として。

ですから、私は間違っていると思います。真相はそれですね。

 

そのようなところに立ち止まるのではなく、もっと神の御用のために。

もうそれしかないのです。