13 ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。

14 そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、

15 細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、

16 また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」

17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。

18 そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」

19 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」

20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。

21 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。

22 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして聖書とイエスが言われたことばとを信じた

23 イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた

24 しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからである。

25 また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったのである。

 

漠然とした課題感として頭にあることの一つは「クリスチャンは怒らないといけないのか」ということです。

クリスチャンは神を信じるなら怒るべき、としている兄弟は私の周りには結構います。

その人たちのほぼ全員がこの2章のケースを例示します。

 

イエスは確かに怒られました。

エルサレム神殿内が商売の場所となっていたことに怒りを燃やされたわけです。

日本の大きな神社では、初詣という完全に商売目的のマーケットが恒例化しているのですが、まさにあの状態であったのだろうと想像します。

ちなみに、ユーチューバー伝道者の高原剛一郎さんの話から教わったのですが、初詣はそもそも川崎大師への客寄せのためにJR(当時国鉄)が展開したキャンペーンが最初で、あれには商売目的以外の意味合いはありません。JRは旅客業務で神社はお賽銭やグッズ販売やショバ利権、的屋さんは的屋さん商売という、今や全国区に渡って一大儲け話キャンペーンとして成功し、現在に至るわけです。

 

で、そのようになっていたであろうエルサレム神殿でのイエスの怒りをよくよく考えてみました。どんな怒りだっただろうかと。

 

根本的には、神殿が神殿のファンクションがないがしろにされて、神殿管理者、恐らくそれはユダヤ教祭司級の人々による金儲けの場所になってしまっていたことに、猛烈な怒りを発されたということがわかってきます。

つまりイエスの怒りの矛先は、一見はそこにいた商売人たちに向けられているように見えますが、明らかにユダヤ教特権層に向かったものです。

 

そして、決定的とも言えるおことばを吐かれています。

「わたしの父の家を・・・」です。

 

怒る、ということを最近は、キレる、と言ったりするのですが、何が切れるのかと言えば、理性から切り離されてしまう、ということだろうと思います。

では、イエスはキレたのでしょうか。

全くそのようなことではなく、むしろ、冷静に怒りを表現されているのだと、この「わたしの父の家を・・・」から感じ取ります。

 

というのは、これはその特権層からすると聞き捨てならないことばであるからです。

わたしの父、これは、イエスはご自身が「わたしは神の子」「神の権威キリスト」であることを宣言しているのであり、これを聞けば特権層は、自分たちの位を脅かそうとする者としてイエスを認識することになります。

 

そして更に、「神殿を3日で建て直す」発言も飛び出しています。もちろん、イエスのご本意は建築のみにあらずですが。

またここでイエスを信じる人たちが多く起こされていることは、この状況、つまりイエスの怒りを結論づけるような出来事です。

全て、その特権層の危機感を煽る出来事になったということです。

イエスは、ご自身の怒りにおいて、その機会を意図されていていたのだと覚えておきたいと思います。

 

イエスは確かに強く怒られたのですが、ただ「気に食わん」と言ってキレられたわけではありません。

当時のユダヤ教特権層に対して、敵対をあらわす意味合いを込めて、怒りという表現をされたと言ってよいでしょう。

それがご自身の役割を果たすためには必要なパーツであったからです。

 

ですから、クリスチャンは怒るべき、というのは、私はもっと繊細に扱うべきところだと考えます。

明確に、神に従う・神を賛美するというビジョンの下で怒りと言うメッセージを発するということではないかと思うのです。イエスがそうされたように。キレるべきではありませんね。

 

今日のみことばからは、そういう黙想を通して、意図を持って感情を表現すること、を実践項目にしたいと思います。