9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
15 ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことです。」
16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
このヨハネの福音書に収められるイエスによる人の救いの説明とも言える記述は、全部暗記しておくべきと思えるほどのわかりやすさを感じています。
イエス・キリストがAD1年に現れてくださった時、それはどんな存在であったかと言うと、「ことばが人となって住まわれる」方でありました。
前日のQTで、神はことばであったことが説明されていますから、つまり、神が人なって共に住まわられる存在であられたということになります。
神が、神というご存在に関する理由で、わざわざ人の姿になって人間社会に住まう必要はそもそもありません。
人という、限界のある者の姿となってあらわれてくださったその目的とは、18節に記される通りです。
父のふところにおられるひとり子の神(=イエス)が、神を解き明かされる(→神がの存在そのものとどのような存在を示される)ために来られた
ことがわかります。
つまり、イエス・キリストがこの世に来られたのは、神ご自身の何らかの益ではなく、人に対してのメッセージであったということです。
「神などはいない」このような事を言うのが、今や正しい者とか正直者であるような社会になっていきつつあります。
そんな中でも神のようなものとして認めることが出来るのは、仏像とか鳥居のような建造物とか、あるいは人が埋葬された墓石とか仏壇とか、そういう物を神そのものとして拝むことは、依然としてつつましい姿とされているようにも思えます。
神などはいない、のだけれど、神のようなものを求める心はいつもあり、それをいなすために人間自身が作り上げて拝んでいるような状況かも知れません。
しかし、この聖書は明確に言います。
その目には見えない神を、イエスがこの神を説き明かしているのです。説明しているのです。
日本の天皇陛下は、その昔、現人神などとされて政治利用されました。
WW2敗戦後、天皇ご自身が人間宣言を出されて、神などではないと告白されています。
このイエス・キリストは、言わば本物の現人神です。
そして、人間宣言をされるのとは真逆に、十字架刑で死亡したにも関わらず自ら蘇生されて墓室を出られました。
更に、大勢の人の面前で天に戻られました。これが神の存在を表しているものそのものです。神宣言です。
人は、この神から差し出されたご自身の存在の証明を、まずは受け取るべきです。
それは、ただ神が神と認めさせるというようなものではなく、人にとって救いという利益がもたらされるからです。
その利益の受け取り行為が、確かにこの聖書の神はおられるということを、まずは信じるということです。
今日のみことばからは、信じるということについて、分解的に教えられたように思います。
何を信じるのか。信じるとは何かをどう伝えるか。
そういうものです。
イエスは、人の目には見えない神を説き明かすために、目に見える存在として来られました。