1 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、

2 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした

3 もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、

4 神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている

5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。

 

昨日、教会での今年最後の礼拝式に参加した後、家内とスタバで時間を過ごしたのですが、その時に「あの諸国の王って誰なのか?」論争にはまりました。

 

黙示録21章で記された、神の栄光を携えて都にやって来る諸国の王と民、です。

 

昨日のQTでは適用が難しく、「わからないものはわからないままに」としたのですが、これを守らずにあれこれと考えたことを夫婦でぶつけあったところ結構な喧嘩に発展しました、スタバで。

 

ふと気がついて、その「わからないままに・・・」という適用を思い出して家内にも伝え、事はおさまったのですが、この黙示録を都合解釈して異端が用いる理由がよくわかりました。下手な解釈は危険です。

 

さていよいよ22章なのですが、ここがゴールなんですね。

このゴールを知っていることが、力になってきます。

 

天国は、うっすらと白んだ空気の中で天使のような格好をした人たちの笑い声が聞こえている・・・というようなものとはちょっと違う様相です。

 

このしもべが人であるなら、ですが、神に仕える者、つまり仕事はあるようです。

もはや、苦しむものはないわけですから、つらさに耐える労働ということではなさそうです。

 

もしかすると、心地よい肉体疲労はあるのかも知れませんが、それも癒されるようです。

 

また、ついに神の御顔を直視出来る状況がおとずれていることは、もう全てが変わってたどいついている事がわかります。やはりこれがゴールです。

 

そして、おそらくその人であるしもべなのですが、永遠の王とされます。

つまりこれは、神と主従の関係のようでありながら、支配者であるということが言えるかも知れません。

変わらず新しい天、新しい地は存在していますから、その差異に似た関係性なのかなとかも想像します。

 

ともかく、ここが最上であり永遠でありゴールです。

 

今日のみことばからは、その「仕える」ということに着目しました。

もし、神に仕えることが、いやいやとか、ひたすら義務感のようであるなら、天の御国は最上のところではなくなってしまいます。

または、神に仕えることは、最上の前味であるという事も言えそうです。

そういう気持ちで、もっと喜んで励みに思って、神に仕える一日にしたいと思います。