22 私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。
23 都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。
24 諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。
25 都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。
26 こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。
27 しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都に入れない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、入ることができる。
黙示録でのQTは”想像を絶する”の連続なのですが、ここに至ってはもう極みの状況です。
科学とか世の理屈とか、哲学とかよく言われるところのスピリチュアルなものも、これを説明することは出来ないはずです。
とにかく素晴らしい状態がやってきているのは確かです。
ところが、ここに至って不思議なことが起こっています。
諸国や民、つまり消え去ったはずの元々の”地”に属する存在があらわれています。
そして、新しい地に降ろされた都にやってくるようです。
既に、裁きによっていのちの書にリスティングされている者以外は、永遠の燃え盛る火の中に放り投げられているはずですから、この光景は特異なものです。
まったくわかりません。
ただ一つ言えることは、あれほど神の存在否んでかたくなであった者たちが、神の栄光を携えて→掲げて都にやってくるのです。
神はやはりおられた。と、ついに認めている者たちです。
しかし、厳然たる事実が突き付けられます。
それはやはり、いのちの書に名がなければ都には入れないということです。
あの人たちは都に入れたんでしょうか、そこが大事な部分です。
神は悪魔を抹殺せずに千年後にまたよみがえる許可を与えておられました。
このことと同じ意味を感じます。
今日のQTからの適用は難しいものです。はっきりとわからない、これこそ奥義が記されていますから。
わからないものはわからないままで良いのかも知れません。
しかし、この神についての不思議は、わからないままで放っておくのではなく、それを見つけにいこうとするところに道があるように思います。それが普通です。
ヨハネは、神殿を見なかったこと、神の光で明るく照らされていること、地に諸国があって民がまだいたこと。
これも私には新しい課題であり、来年のテーマになっていきそうです。
今日の適用はちょっと無理がありますが、今わからないものは課題に、で。