11また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった

12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物が開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた

13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた

14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。

15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた

 

ヨハネが見せられた光景が、もし時系列で進んでいるものだとすれば、これは千年後に獣が復活してから起きることです。

 

ここでは「天も地も御前から無くなる」旨記載されていますから、天が開かれて地との関連がもたらされた世界もここで終わるようです。これからすると、やはり千年後です。

 

そして、いよいよこれから全ての死人の審判となるわけですが、ここが肝心です。

今を生きる私たちにもとても関係していることです。

行いに応じて裁かれると2度言われていますが、神の基準にて行いが裁かれるなら、人間(少なくとも世を理知的に経験している者)が無実で終わることはありません。

神の完全なる正義の基準を生涯に渡って満たせる者はいません。

仮に一つだけの罪であったとしても、罪人であることを逃れられないからです。

仏教哲学においては、罪滅ぼしの理念がありますが、神の前ではそのような自分で自分の罪を何とかするような行動は通用しないことを聖書は明言しています。

 

一滴の猛毒が入れられたミネラルウォーター。

普通の人ならこれは飲むことが出来ません。

それならば、と、さらにミネラルウォーターを足しても、それは薄めているだけのことであり、猛毒は取り除かれません。

そして、やはりそれを飲むことは出来ないはずです。

 

自分が飲むことが出来ないものを他人には飲めると考える。

これこそ偽善者の特徴です。

そして、「神様は愛なら飲めるでしょう」とむちゃくちゃな事を言うのが、残念ながら多くの人たちの考えです。神への誤解と侮りです。

神は、罪と言う猛毒が含まれた人間個人を決して受け入れることはなされませんし、いくら良い行動でそれを薄めようとしても、猛毒が含まれた人間個人であることには変わりはありません。神は決して受け入れることはなされません。神は愛である一方で、完全なる正義であられるからです。

 

つまり、行いによって裁かれるなら、それはもう永遠の苦しみに落とされるということです。

永遠を侮らないでください。永遠の激痛、永遠の呼吸困難、永遠の闇、それがもう終わることがありません。救われることもありません。

 

偽善者が好むような愛ではなく、本当の神の愛は、その永遠から逃れることが出来る事前準備にあらわれています。

それがイエスという存在、イエスという”道”です。

 

この世で生きているうちに人が

イエスが十字架で亡くなられたのは、自分のその猛毒たる罪のためであったのだと認め、悔い改めて、その”道”を歩むこと。

これ以外に、裁かれて永遠の激痛、呼吸困難、闇・・・・に落とされることから逃れる方法はありません。

これが、いのちの書に名が記される、事前に記されている、ということになるわけです。

そして、この状態を「救われている」と言います。

 

自分は罪人ではない、自分は罪なんて犯していない、という思いは、ただの独りよがりだということをまずは自覚しておいた方が良いと思います。

それを決めるのは神だけですが、聖書によれば、全ての人が罪人であることは明白です。

罪人が裁かれないために、いのちの書に名が記されるためには、イエスをこの世で生きているうちに信じ、”道”としている必要があるということです。

 

教会に毎週欠かさず行くことも、たくさんの献金をすることも、年末にホームレスの人たちに食事をふるまうことも、賛美歌のコーラスに加わることも、全てイエスを信じてその”道”を歩く喜びからあふれる行動です。

もし、自分の罪を認めていないなら、つまりイエスを心から必要としていないなら、それらの行動は、ただ宗教活動に参加しているだけのことであり、いのちの書には名前が記載されません。

最期に行い応じて裁かれるだけであって、行動によって罪が中和されることは微塵もありません。罪滅ぼしなどは無いのです。

 

今日のみことばは、とても気になるものです。

自分に関しては、これだけは避けたいものでありますし、もし仲の良い友人や家族にもそんな目にあわせたくないというものです。神のさばきで落とされるようなことがないようにと思います。

 

今、「何を馬鹿な事を」と思われたとしても、覚えておいていただきたいのです。

イエスがいよいよ必要となった時、自分の罪を認めて悔い改める、イエスを信じる事、祈り求める事。イエス以外の救いに関係するだろう要素は自分自身も含めて全て手放すこと。

これは人によっては瞬時に出来ることであるような気もしますから、忘れないでいてもらいたいのです。