8 彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。
9 彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、
10 私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」
11 また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。
12 彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
13 また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にありますように。」
14 また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。
子羊イエスが御座の神から巻物を受け取ったところから、天での礼拝に変化が出ています。
聖徒たちの祈り、つまり、教会の者である私らの祈りが香として捧げられるところです。
捧げられるでそんなに間違いはないと思いますが、お供えするというより、香りですから、天に漂うわけです。
そして、新しい歌、を歌います。賛美しています。
子羊イエスがついに巻物を受け取ったのですから、これは新しい展開ということになります。
そして、この地上のわれわれ人間にとってそれは果てしない程の朗報です。
ついに救いがあらわれるのですからね!
これは、ええ!?そんなことまでしてくださるの!?夢じゃないよね!?という思いに溢れた歌だと私は思います。
歌もまた、祈り香と似たところがあります。
歌は音ですから、これもまたいわゆるお供え物と言うより、漂わせるもの。
つまり、この時天は、祈りの香と賛美で満ちるわけですね。
そして注目なところは、億単位の御使いが被造物として共にいることです。
これはすごい規模です。満ち満ちますね。
昨晩、一線を退かれた牧師さんご夫妻に招かれてお宅におじゃましました。
感謝祭の食事を一緒にしようと声をかけてくださったのです。
高齢のご夫妻と娘さん、私たち以外に招かれたお二人との時間でした。
いわゆるパーティとはまた違うものです。
食事から始まり、延々と続くフェローシップです。
午後3時に着いてから、お宅を出たのは午後10時でした。
その間に、奥様のピアノでの伴奏にあわせて賛美しました。
互いの祈り課題を伝え合って祈り会にもなりました。
天の礼拝に似ていたなと思いました。
元々の私は、そういうものがあまり好きではありません。
きれい事を言って、一時的な傷のなめあいをする、偽善者の集まりだな、というようにひねくれた考えをしてしまう者です。
うまい物をたくさん食べて、下品な会話で盛り上がり、自分がその中でちょっとは注目もされたいと思う、そんな者です。
しかし、昨日のその時間、私はもう「こっちの方が良いな」と思えたことが嬉しかったです。
そんな下品な会話で盛り上がるではなく、賛美と祈りで満たされるような集まりの方が、もう私には安心なのです。
私は変えられたと思います。
何に変えられたのかと言うと、世の楽しみを楽しむだけ楽しむことに幸せを見出す者から、礼拝する者に変えられたか、まだまだ変えられている途中という風です。
「神様がしてくださったこと」「イエス様が共にいてくださること」
大声で叫びたいと思っているのに、叫べない自分が悲しかったりする毎日なのですが、礼拝では大声で言うことが出来ますし、それを言うことを遠慮することがありません。
神が望まれるのは、この地で礼拝者となることなのろうと思います。
もっと言えば、教会堂を出る礼拝者となることでしょう。
そういう意味で、私はまだまだ変えられているところであり、もっと祈って私自身が神で満ち溢れさせていただくことが必要ですね。
今日のみことばからは、「新しい」というチャレンジを受けました。
何か一つ、新しい事を。
イエスがついに巻物を取られた!
この新しさと同等のものなどありませんが、チャレンジするところに神はきっと答えをくださると信じます。
既に私は新しい者です。そういう満たしも受けました。感謝します。