1 また、私は、御座にすわっておられる方の右の手に巻き物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。
2 また私は、ひとりの強い御使いが、大声でふれ広めて、「巻き物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか」と言っているのを見た。
3 しかし、天にも、地にも、地の下にも、だれひとりその巻き物を開くことのできる者はなく、見ることのできる者もいなかった。
4 巻き物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったので、私は激しく泣いていた。
5 すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」
6 さらに私は、御座—そこには、四つの生き物がいる—と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。
7 小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。
クリスチャンがよく使う言葉で三位一体というものがあります。
父・子・聖霊が「三位一体」であるというのは、要するにそういうことである、というような一つの表現語であるように思います。
神とイエスの関係性というのも要するに一体なのですが、今日のみことばにあるように、天の御座につかれている神と人の世に立って人の罪の根本を断ち切られたイエス、これは位として偏在されているお姿にも思えるのです。
ヨハネはこれを見せられる中で、まさに霊に感じて巻物が開かれないことを悲しんだのでしょうが、慰めと解決がその三位一体の神によってもたらされていることがわかります。
ではその位って何よ、と考えたりもするのですが、ヨハネが泣かなくてもよくなること、私自身が受けて今も受けているものが何かを思えば、考える必要はそもそも無く、そのままそれは人にわかる神の愛、神からはっきりと示された愛であることが明確です。
そして、その人にわかる神の愛という位、とでも言うべきお方であるイエスが巻物を御座から取られるところなのですが、こういう一体の中にあって構成されている位というか格というか、ここに神の無限性を見るわけです。
これを有限の人が自分自身に照らしますと、まるで自己分裂を起こして自分の他に別の人格を自分自身に持つ多重人格者のように考えてしまいます。
しかし、多重人格が人間の脳の動きであるのに対し、神の三位一体というのは・・・・言葉には出来ませんね。全く違うものです。
確実な事は、聖書にあらわされているところ、神は人にご計画をお持ちだということで、その人の救いを成されるのはあくまで神ご自身、というビジョンとか理由が存在していることです。
神は永遠で矛盾なく完璧で、人類全体を集団で扱われながら、人それぞれ個人をも同じように扱われるということもその性質です。
多重人格とは全く違うものです。
私は言わば素人ですから、こういう事はあまり詮索すべきところではないのかも知れません。イエスを慕い、しがみついている者ではあります。
今日のみことばって、私には「おお!」というもので、脳内物質が分泌されるにまかせて色々と考えをめぐらしてみた、というレベルかと思います。
今日は、昼から主にある兄弟たちと集まって過ごすことになっています。
イエスに表わされた神の愛を真似るように、兄弟に愛を示すこと。
これが今日の適用です。