12 また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。
13 「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。
14 しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた。
15 それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。
16 だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。
17 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」』
ペルガモ教会に申し送れと言われる内容ですが、ここでイエスの言われる悔い改めとは恐らく、指摘されるところの偶像礼拝や不品行を行う者自身の悔い改めの他に、それを看過してきた者の悔い改めも含まれていると思います。
以前、日本で所属する教会で、何か問題を起こした信徒がいました。
私は彼と同じスモールグループに所属していましたし、素晴らしいミニストリーを引っ張っているリーダーでしたから、突然教会を去るということになって悲しかったものです。
それが教会から出ていくことを言い渡されたものであったことを知った時は、少なからずショックを受けました。
ただ、その何らかの問題について、教会からは”やめるように”何度も警告していたところ、彼がそれを聞き入れなかったことが原因であったことがわかりました。
教会の姿勢としては健全なのだと思います。
信徒同士の関係性で気をつけなければならない事、特に私自身にもこれはあり得ることなのですが、「何でもあり」になってしまうことです。
良好な関係性の中では、多少の問題があっても看過してしまう傾向って、結構あったりします。
しかしそれが実は、内部崩壊を招くほどの破壊力のあるものだと言うことを、わきまえておかなければならないのだと、教えられます。
もちろん、ペルガモ教会での問題は、もろに福音に反するものが教会内に持ち込まれていたわけで、そんなものは排除して当然のことです。
しかし、この事の始まりは何だったのかをも想像していくと、そういうものに発展しまうかも知れない小さな小さな火種を消していくことが、適用すべきポイントであると思います。
日本では、キリスト教会に石が投げられるような事は起こりません。つまり、迫害によって教会が破壊されることはまずありません。
しかし、そういう教会内での崩壊というのは起こっているものですし、私はそれに準じた経験をしたことがあります。
そのようにならないためにも、火種に敏感になることは大事なことであると思います。
さて、今日のみことばでは、最後に光がさすようなみことばがあります。
勝利を得るものには隠れたマナを与える、と言われます。
マナは、エジプトから脱出したイスラエルの民に、毎朝天から与えられた食料です。
イエスが言われるのは、勝利を与えるというよりも、勝利に向かって走る者に与えると言われているように捉えることが出来ます。
毎日、今日も、明日も、イエスが与えてくださいます。
そして、白い石が与えられると。
白い石とは、裁判で無罪を意味するものだそうですが、これが欲しくてがんばってるんじゃないですか私は。新しい名前が書かれている白い石です。
これを頂く時、いよいよ救いが具現化する時、ということなのだなあ!と励まされます。
主にある兄弟の小さな火種を指摘するのは、心痛が伴うかも知れませんし、面倒であったりもします。
自分自身にある火種を認めることも、なかなか難しいものであったりもします。
しかし、決断すること、その一歩だけを踏み出すこと、それはきっと聖霊の満たしによって成されるものなのでしょうが、そういう選択を明確にすることによって、神の力によってみちびかれるはずです。
イエスを信じて踏み出します。