1 エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。

2 「わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。

3 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。

4 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

5 それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。

6 しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行いを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。

7 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」』

8 また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。『初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。

9 「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。—しかしあなたは実際は富んでいる—またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。

10 あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちにある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。

11 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」』

 

諸教会への申し伝えが開始されますが、イエスは「諸教会に言われることを聞け」と言われます。

 

それぞれの教会への申し伝えではあるのですが、全て信じる者は聞かなければならないことです。

 

黙示録も2章の時点では、まだ思考もフレッシュですから、これまで読んだ中で響いてきたみことばが次々と並びます。

 

多くのクリスチャンが戒めとして受けるのは、エペソ教会に言われた「はじめの愛を忘れた」というご指摘ではないでしょうか。

 

エペソ教会のことをよくやったと褒めながら、問題点をしてこれを指摘されて、もし悔い改めなければ「燭台を取り外してしまうぞ」と厳しい警告をされています。

 

イエスを指して、7つの燭台の間を歩く方、とされているのですから、燭台が取り外されるということは、イエスから離れる、めぐみから離れる、何かそのような意味を感じずにはいられません。

それほど、はじめの愛に忘れないことは重要と言うことです。

 

先日の日曜日は、牧師さんのメッセージと言うより、信徒さんの証の日でした。

まだ行き始めて3か月目の外国の教会ですが、こういうのは初めてでした。

 

日本の教会でよくあるのは、「あなた次の日曜日にお証してください」とあらかじめ準備を促された人が礼拝の中でお証の発表をする、という形です。

しかし、先日のそのお証の日は、自分で手を挙げて証するというものでした。

 

合計で7、8人が前に出たのですが、そのほとんどが男性であったことが印象的でした。そして、お証をしているうちに皆、涙を流すんです。皆です。

 

私はあれを見た時にまず思ったことが、イエスが教会におられるということと、そして「はじめの愛」でした。

 

あの涙というのは何でしょうか。

私は人前で泣くことを恥ずかしいと未だに思っているところがあって、こらえる事がよくあります。

しかし、それでももう耐えきれずに堰を切って流れてくるものが止められなくなるのは、何なのでしょうか。

 

それは、一言で言い表せるものではありませんが、「私のようなものに」という事を前提とした、受ける資格の無いものが受けた時に溢れ出て来るものだと思います。イエスへの思いで集約されるものですが、喜びとも言えるし、悲しみとも言えるし、感謝であり、申し訳なさでもあり、安堵でもあり。

はじめの愛を忘れない、というのは、そういう涙を枯れさせないということなのかなあと思いました。

 

今日のみことばからの適用は、真剣に悔い改める、です。

私の場合、今は真剣というより切実に、です。

 

もう一つは心得として、苦難に負けないことです。

イエスは明確に「苦難がある」ことを宣言されているのですが、これを十日間とされています。

つまり、永遠に苦しむのではない、ということです。

 

苦難、嫌です。なんとか逃れたいと思います。

しかし、イエスにある限りはいずれ逃れることが出来ます。

このことをしっかりと握りしめて今日を生きたいと思います。