1 主よ。私はあなたに身を避けています。私が決して恥を見ないようにしてください。
2 あなたの義によって、私を救い出し、私を助け出してください。あなたの耳を私に傾け、私をお救いください。
3 私の住まいの岩となり、強いとりでとなって、わたしを救ってください。あなたこそ私の巌、私のとりでです。
4 わが神よ。私を悪者の手から助け出してください。不正をする者や残虐な者の手からも。
5 神なる主よ。あなたは、私の若いころからの私の望み、私の信頼の的です。
6 私は生まれたときから、あなたにいだかれています。あなたは私を母の胎から取り上げた方。私はいつもあなたを賛美しています。
7 私は多くの人にとっては奇蹟と思われました。あなたが、私の力強い避け所だからです。
8 私の口には一日中、あなたの賛美と、あなたの光栄が満ちています。
9 年老いた時も、私を見放さないでください。私の力の衰え果てたとき、私を見捨てないでください。
10 私の敵が私のことを話し合い、私のいのちをつけねらう者どもが共にたくらんでいるからです。
11 彼らはこう言っています。「神は彼を見捨てたのだ。追いかけて、彼を捕らえよ。救い出す者はいないから。」
12 神よ。私から遠く離れないでください。わが神よ。急いで私を助けてください。
13 私をなじる者どもが恥を見、消えうせますように。私を痛めつけようとする者どもが、そしりと侮辱で、おおわれますように。
色々なことが起きて心が騒いで仕方ない、そんな日々が続いています。
こうしてダビデの祈りが日々与えられているのも、また神のご采配であることを感謝しています。
しかし、このようなダビデの祈りから洗い出されるのは、私は決して神のゆえに受ける世での苦しみとかではなく、むしろ自分がやらかしてしまったことによる苦難を迎えようとしている、という事実です。
そして、それが故に「自分を悲しむ」ことが出来ているのかも知れません。
これはむしろ、良い事です。
ただし、ダビデにあった心の奥深いものを更に掘り下げて考えていくと、ダビデにあって私にもある共通点に達することもまた出来るのです。
それが、今日のみことばにあらわされたものではないかと思うのですが、「私から遠く離れないでください、急いで私を助けてください」という叫びに集約されています。
本当は、神は遠く離れておられるのではなく、私の方が、世にある神から離れようとする引力に引っ張られてしまっているのだと思います。
この引力と戦わなくてもよいほどに打ちのめされる必要があるということなのか、とも考えてしまいますが、それは私にはわからないことです。
ただ確実に言えることは、神もまた引力であられるということです。
ほぼ真逆の両方からの引力に引っ張られているような、そういう葛藤のような、体が引き裂かれるようなところで生きているわけです。
そうすると、結局のところ、そこから自分が楽になりたいと思うなら、どちらの引力を手放すのかということになってきます。つまり、選択が生じているということです。
私は今日、一度、世の方を手放して、神の引力に引き込まれる選択を明らかにしたいと思います。つまり、世の方を手放すということです。
イエスは「悲しむ者は幸い」と言われたのですから、その幸いがどのようなものなのか、私は見てみたいと思います。
「キリストにはかえられません」