指揮者のために。ダビデによる。記念のために
1 神よ。私を救い出してください。主よ。急いで私を助けてください。
2 私のいのちを求める者どもが、恥を見、はずかしめを受けますように。私のわざわいを喜ぶ者どもが退き卑しめられますように。
3 「あはは」とあざ笑う者どもが、おのれの恥のためにうしろに退きますように。
4 あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、「神をあがめよう」と、いつも言いますように。
5 私は、悩む者、貧しい者です。神よ。私のところに急いでください。あなたは私の助け、私を救う方。主よ。遅れないでください。
ダビデは祈りの中で、救いを早く早くと催促しているようにも聞こえます。
神には神の時間があるということをダビデはわかっているはずなのに、急いでください、遅れないでください、という言葉が出てきているのです。
人前で祈る機会が増えだした頃、私はある言葉を多用するようになりました。
それは、「大胆に」という言葉です。
大胆、というのは、「思い切って」とか「強めに」とか、何かを押し込めることなくそのままの状態を晒しだすような様を指し示すものです。
そして、大胆に神に近づく、という意味で聖書にも登場しています。
牧師さんやらが祈りで使われていたのを自分にすっと入ってくる表現であったから気に入っていたのでよく使ったのですね。
でも、それで良かったんだと思います。
そこには、神を信じる者の根底真理があるからです。
それは、本来赦されることのない存在である自分自身であるのに、または、罪にまみれてとても恥ずかしい自分であるのに、なんとその赦す赦さないの当事者であられる神の前に「赦してください」と出ていくことが救われる唯一の方法ということです。
ダビデは自分に罪があることを告白していますから、神から逃げ隠れしていても不思議はありません。
しかし、このようにして恐れをもって神に近づいて救いを祈るのです。
ここで言う救いというのは、ダビデが自分の命をつけ狙う者から救われることです。
更にその延長線、逃げ隠れせずに神に向かうその延長線で「早く早く」と祈るのですから、これはもう神にむさくるしい程どんどん迫って行っているダビデの姿です。
これを”大胆”と言わず何でしょう。
無限大の願い事を神にぶつけることと、ダビデが神に早く早くと救いを急かして迫ることとはまた違うものです。
その差は、神に願うものの切実さです。
あってもなくてもよいものを無限大に祈ることが良いのか悪いのか、それは私には判断がまだつきませんが、少なくとも、身に迫る危機からの救いについては、むさくるしい程神に近づいて祈っていくことは霊的合理性があるのだと教えられます。
今日、ダビデの祈りからもう一つ教えられるのは、自分以外の者についての祈りです。
あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、「神をあがめよう」と、いつも言いますように。
自分のことで精いっぱいのはずですが、ダビデは祈りの中、神の内に入っていくような状況が得られたのか、こうして、目線が急激に高くなったような祈りになっています。
いずれにしても、自分自身の救いと共に信じる兄弟たちの救いにはつながりがあることがわかります。自分だけ救われたらそれでいいや、というマインドでは救われない、というよりも、神を信じる事について、いずれ限界点を覚えるようになってしまうのではないかな、と思います。
今日のみことばからは、2つの適用が得られました。
1つは「急いでください」という祈り、もう1つは兄弟たちへの祈りです。
安直ですが、大胆な適用です。
きっと神は喜んでくださると思います。