指揮者のために。ダビデの賛歌

1 神よ。私の嘆くとき、その声を聞いてください。恐るべき敵から、私のいのちを守ってください。

2 悪を行う者どものはかりごとから、不法を行う者らの騒ぎから、私をかくまってください。

3 彼らは、その舌を剣のように、とぎすまし、苦いことばの矢を放っています。

4 全き人に向けて、隠れた所から射掛け、不意に射て恐れません。

5 彼らは悪事に凝っています。語り合ってひそかにわなをかけ、「だれに、見破ることができよう」と言っています。

6 彼らは不正をたくらみ、「たくらんだ策略がうまくいった」と言っています。人の内側のものと心とは、深いものです。

7 しかし神は、矢を彼らに射掛けられるので、彼らは、不意に傷つきましょう。

8 彼らは、おのれの舌を、みずからのつまずきとしたのです。彼らを見る者はみな、頭を振ってあざけります。

9 こうして、すべての人は恐れ、神のみわざを告げ知らせ、そのなさったことを悟ります。

10 正しい者は主にあって喜び、主に身を避けます。心の直ぐな人はみな、誇ることができましょう。

 

誰かの悪い噂話を話のネタとして楽しむというようなことは、それなりにあるものだと思います。

 

だいたいの場合、それは不在裁判で行われます。つまり、噂の的となる本人は不在で、その人の事を不確かな話で貶めていきます。

 

ダビデの場合はそのような噂話のレベルでは無かったと思いますが、構造的には似たようなことが起こったのでしょう。

 

私はこのダビデの教訓とか、ダビデの姿をどのように生かすべきかを考えますと、まずはそういう噂話に乗って、不在裁判を裁く者にならないことが大事です。

これは教会でもよく起こることですが、「そういう噂話はやめておこう」と言えるようにしなければなりません。裁く者は裁かれると思っておくべきです。

 

しかし私が最も気をつけなければならないのはそれよりも、自分が噂話の対象になっている時、その怒りの処理をどうするかです。

 

結構、言ってしまうところがあります。

それはもう鼻っからけんか腰で、噂話とか陰口を叩いてそうな人に攻撃をしかけるような。

 

そういうことは、やるべきではなく、神がその者に知らしてくださること、罰してくださることを絶対に信じるべきです。

他の方のことはわからないのですが、私には、ここに神からのチャレンジがあるようにも思います。

 

イエスは、世の常識感で言えば、あり得ない不条理を被ってくださいました。

それは、私自身が支払うべき負債を、代わりに支払ってくださったことであると、聖書はずっと語ります。

 

昨晩、家内との毎日の祈り会では、マタイ18章を読みました。

ペテロは、兄弟たちが私に対して罪を犯したら何度ゆるすべきでしょうか、とイエスに聞くのですが、イエスは「七の七十倍まで」と言われました。単純計算するなら490回ゆるすように言われます。

 

ダビデが言う、おのれの舌、への対応と、ペテロの例示とは少し異なっていますが

ダビデは神にその腹立たしさを嘆いて本人に鉄槌を下さなかったことと、イエスがペテロに言われた「ずーっとゆるせ」と言うのは、似通っていると思います。

神がやってくださるからです。

 

なんでもかんでもゆるせばよいというものではない、ということはわかりますが、私に関しては、神にあっては何でもかんでもゆるすことの方が、大事なことであるように思います。神にその処置をゆだねて。

 

実は、今朝早くから、私の住居のまわりでうるさい工事が実施されています。

土曜日なのに何考えてんだ、ということで、文句を言っている人たちがいます。

私にあっては、もし個人がうるさいと感じるだけのことであれば、主にあって見逃したいと思います。彼らも仕事なのです。

 

イエスが被られた不条理は、私のためでありました。

あの不条理比べたら、どれほど簡易でしょうか。

490回のゆるしは、大げさでもなんでもなく、イエスについていく者がわきまえるべき大事な要素であるとわかってきます。