13 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。
14 律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。
15 もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。
16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
18 しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。
19 肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。
26 互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。
英語の聞き取りの勉強にという意味も含めてYouTubeで視聴している米国のとある教会のメッセージで、今日のみことばがありました。
一か月ほど前のことですが覚えています。
牧師さんがある例を示してくれていたのですが、事情があって生まれてから一度も会ったこともない肉親の兄弟の話でした。
ある時、道ですれ違った人のことを、自分の兄弟だ!とすぐにわかったと言うのです。
なぜそれがわかったかと言うと、歩き方が父親とそっくりだったからだそうです。
イエスを信じる者は、何でその姿を認知されるべきなのかと言うと、その一つは歩き方なんだと思いました。
古い方の新改訳では「御霊によって歩きなさい」となっているのですが、あの米国教会で引用されたのはKJVからで"Walk in the Spirit"でした。聖霊の中を歩く。この方が私にはすっと入ってきます。
昨晩は夜遅くに家内と喧嘩になりました。
色々なうっ憤がたまっていたようで、それがはきだされた形です。
それで私も応戦して、自分の正当性を主張し、彼女の非をあげつらいました。
あの時、私は聖霊の中を歩いておらず、肉である自分の肉の思いを実現していました。
この神、イエスは、会社にいたりとか教会にいる時、街中を歩いているような時にもちろん私を見ておられますが、家内と喧嘩している私も同じように見ておられます。誰もいないところで一人でいる私のことも見ておられています。
聖霊の中を歩むことは難しいようなことではないようにも感じますが、本当に歩んでいるかどうかは、むしろそういう人目につかない所でいる時に現れるのではないかな、と思うのです。
そして、そういう所での歩き方が、人前での歩き方に影響してくるような気もするのです。
ただ、忘れてはいけないのは、聖霊の内に歩けなかったこととか、人前とは違う姿が自分一人の時にあったとしても、神を信じる資格が剥奪されるわけではないということです。
むしろ、イエスはその一人の時のために来られたことをいつも覚え続けるべきなんだと思います。
律法では、超厳格な裁きを表された正義の神ですが、イエスにあっては、完全な愛を示しておられるのですから、それを受け取り続けるということです。
これは、人生の中で最も大事なことと言えるかも知れません。
人目に触れずに一人でいる時の自分にさえも向けられた愛を受け取る時、私は泣いてしまうことがよくあります。
あの涙って何なのかな、と今もまだ思います。完全にうれし涙でも完全に悲し涙でもないものです。やったー、神様ありがとう!私は自由です!と言えるのが最も理想ですが、なかなかそうはいかないんです、私の場合は。
人前では涙も出ませんが、一人でいたら涙もぼろぼろ出てくるということでもあります。これがきっと、パウロが13節で言及する「自由」なのだろうなと思います。
ふと思い出すことがあります。
それは、イエスと共に十字架にかけられた死刑囚のことです。2人いましたが、1人はイエスに悪態をつき、もう一人はイエスの無罪を悟り、そこに希望を見て信じたのだと思います。この方は確かに王、支配者であり神である、というような。
つまり、重犯罪を犯した者でしたが、イエスの隣で十字架にかけられて、十字架の上でイエスを信じました。これこそ、驚くべきめぐみの代表格と言えないでしょうか。
あの罪人の姿が、私の姿であることを告白すべきです。
そしてあの死刑囚が言ったように、「主よ、御国であなたの位におつきになった時は私を思い出してください!」とも。なんと強い信仰の告白でしょうか。
イエスは死にまで共におられてガイドしてくださるお方です。
「死刑になるようなとんでもない犯罪を犯してたお前に、そんな資格は無い」とは言われず「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と言われました。あの死刑囚は、人生の最期になってイエスの中を歩みました。
もしイエスが、あの後墓に眠ってそのままであったら、人の罪のために死を選んだ最善の人であったでしょう。
ですから、それに与ったと言っても、精神世界以下の話に過ぎません。やったーありがとう!などは不謹慎なこととして、悲しみの涙が求められる湿っぽい話になったことでしょう。
しかしイエスは復活されました。精神世界ではなく、現実世界の中で復活されました。
イエスの死そのものは喜ぶことではありませんが、神はほぼ間違いなく、人を喜ばせる意図を持っておられたのだと思います。
やったーありがとう!でよいのです。
気分的にはこんな感じでしょうか↓
今日のみことばからは、もうそれですね。聖霊にみちびかれる、ということです。
肉の思いを断ち切ることはなかなか難しいものですが、とにかく、その決断に立つことだけが求められています。聖霊のみちびきは、それから始まるのでしょう。
とりあえずは、嫁さんに謝る決断です。