12 お願いです。兄弟たち。私のようになってください。私もなたがたのようになったのですから。あなたがたは私に何一つ悪いことをしていません。
13 ご承知のとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした。
14 そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり、きらったりしないで、かえって神の御使いのように、またキリスト・イエスご自身であるかのように、私を迎えてくれました。
15 それなのに、あなたがたのあの喜びは、今どこにあるのですか。私はあなたがたのためにあかししますが、あなたがたは、もしできれば自分の目をえぐり出して私に与えたいとさえ思ったではありませんか。
16 それでは、私は、あなたがたに真理を語ったために、あなたがたの敵になったのでしょうか。
17 あなたがたに対するあの人々の熱心は正しいものではありません。彼らはあなたがたを自分たちに熱心にならせようとして、あなたがたを福音の恵みから締め出そうとしているのです。
18 良いことで熱心に慕われるのは、いつであっても良いものです。それは私があなたがたといっしょにいるときだけではありません。
19 私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。
20 それで、今あなたがたといっしょにいることができたら、そしてこんな語調でなく話せたらと思います。あなたがたのことをどうしたらよいかと困っているのです。
あの喜びはどこに行ったのですか。
すごく心に響いてきます。
あの喜びはどこに行ってしまったのでしょうか。
はじめて福音を聞いた時、背中に背負っていた重い荷物がなくなったような、そんな風に感じました。
たれは喜びであったと思うのですが、どちらかと言えば、ほっとしたような、やっと出口の灯が見えたような、そういう安堵でした。
福音を聞いてから2カ月経って、その頃は教会にも行き始めていたのですが、日常生活を一変させてしまうような事件が私に起こりました。とても悪い事でしたが、不思議とその福音を聞いた時の安堵の方向につながっており、祈りがありました。
人が死にましたので、あれを神がしてくださったこと、などとは言いたくはないのですが、人のいのちを司っておられる神なのですから、むしろ、神がしてくださったことと考える方に救いがありました。
そして、今ではもう間違いなく神がされたことだと思っています。
そんな事があって、またあの教会に行ってみた時、あの時に喜びがありました。
なんと言えばよいか、私には場違いな感覚さえあった教会が、共同体のように思えました。
それはシェルターのようでもあり、そこに入り込んでしまえば守られるんだ、という。
ただもうそれば、安堵のような反応ではなく、もっと積極的に入っていきたいと思わせるような、やはり喜びでした。
パウロが言うことがすごくわかります。
自分の目をえぐり出して与えたい、という思い。
パウロが大事と言うよりも、教会が大事で、教会とはつまり兄弟であり姉妹であることが霊的な教えを受けていたのかも知れません。
目をえぐり出すことは無かったですが、なけなしの金を絞り出していましたし、時間も絞り出し、体力的にはいつも限界かそれを超えていました。
でも喜んでいましたね。誇ってもいました。
もちろん、あれはイエスが与えてださったものだと思いますが、その時の牧師さんやその奥さんの存在も大きかったと思います。
私にとってこのパウロの存在は、あの牧師さんや奥さんかも知れません。
神の御前に連れて行ってくれた方であり、教会という群れに混ぜ入れてくださった方です。
当然、信仰の対象にはなり得ない方ですが、感謝とか尊敬とか親しい交わりの対象ではあります。
人間的には色々と欠点も見える方ですが、それを用いられる神の働きもよく見せられました。
今日のみことばの、あの喜び、からみちびかれるのは、その牧師さんへの思いでした。
私が居を遠方に移しましたし、今はもう日本を出ていますからすぐに会うのは難しいものです。
しかし、まずはあの牧師さんやそのご家族のために祈って、平日に一度連絡してみようと思います。
それは、私にあった「あの喜び」を思い出すというよりも、誰かにそういう喜びをもたらすことのお手伝いが出来るようにと、心を改めるためです。
きっと、そこにはまた「あの喜び」の噛みしめがあり、新しい喜びでもあるはずです。
または、パウロがそうしたように、私はあの牧師さんから叱咤を受ける可能性もあります。
でもそれは、最も良かったことだと後で振り返ることになるに違いありません。
神のことから出ている思いは、無駄に終わることも、虚しくなることもないはずですから。