1 使徒となったパウロ—私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです—
2 および私とともにいるすべての兄弟たちから、ガラテヤの諸教会へ。
3 どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
4 キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。
5 どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン
6 私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。
7 ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。
8 しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。
9 私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。
10 いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。
「どう生きるべきか」という普遍的な問いに対して、パウロと言うより聖書が「神に取り入れ」と語っているのではないかと思いました。
伝道者であり、開拓者であるパウロですから、一般的な信徒である私のようなのが真似たりするなんて、何かおかしな感じもします。
魚がライオンの歩き方を真似たいと思ってるような。
しかし、もし私が本当にそれを思うなら、それこそ人に取り入る姿勢だと思います。
神を侮ることにつながりますからね。つまり、私はパウロのようであるべきだと考えているということです。
神に取り入る。
気に入られようとご機嫌をとる、と言い換えることが出来ます。
神は、私がどのような言葉を使えば気に入ってくださるのか、私のどのような行動について喜んでくださるのか。
それって、この世で私がどう生きるべきかの答えそのものです。
パウロは、ガラテヤ教会に蔓延しだしていた、”おかしな福音”を否定することは、そのおかしな福音を言っている者たちと争って勝ちたいと思っている、ということではない、と言っているのだと思います。
なぜなら、神が最も喜ばれることは、人が救われることだからです。
その喜こびに正確にみちびかれるためには、福音が本物である必要があるということですね。
神に取り入る。今日だけではなく、これは私の人生の目的としてとてもわかりやすいみことばであると感謝しました。