1 角笛を口に当てよ。鷲のように敵は主の宮を襲う。彼らがわたしの契約を破り、わたしのおしえにそむいたからだ。

2 彼らは、わたしに向かって、「私の神よ。私たちイスラエルは、あなたを知っている」と叫ぶが、

3 イスラエルは善を拒んだ。敵は、彼らに追い迫っている。

4 彼らは王を立てた。だが、わたしによってではない。彼らは首長を立てた。だが、わたしは知らなかった。彼らは銀と金で自分たちのために偶像を造った。彼らが断たれるために。

5 サマリヤよ。わたしはあなたの子牛をはねつける。わたしはこれに向かって怒りを燃やす。彼らはいつになれば、罪のない者となれるのか。

6 彼らはイスラエルの出。それは職人が造ったもの。それは神ではない。サマリヤの子牛は粉々に砕かれる。

7 彼らは風を蒔いて、つむじ風を刈り取る。麦には穂が出ない。麦粉も作れない。たといできても、他国人がこれを食い尽くす。

8 イスラエルはのみこまれた。今、彼らは諸国の民の間にあって、だれにも喜ばれない器のようだ。

9 彼らは、ひとりぼっちの野ろばで、アッシリヤへ上って行った。エフライムは愛の贈り物をした。

10 彼らが諸国の民の間で物を贈っても、今、わたしは彼らを寄せ集める。しばらくすれば、彼らは王や首長たちの重荷を負わなくなるであろう

11 エフライムは罪のために多くの祭壇を造ったが、これがかえって罪を犯すための祭壇となった

12 わたしが彼のために、多くのおしえを書いても、彼らはこれを他国人のもののようにみなす。

13 彼らがわたしにいけにえをささげ、肉を食べても、主はこれを喜ばない。今、主は彼らの不義を覚え、その罪を罰せられる。彼らはエジプトに帰るであろう。

14 イスラエルは自分の造り主を忘れて、多くの神殿を建て、ユダは城壁のある町々を増し加えた。しかし、わたしはその町々に火を放ち、その宮殿を焼き尽くす。

 

今日のみことば2節に”イスラエルは神を知っていると訴える”旨、言及されています。

しかし、神はそれを信じることとは受け取っておられません。

 

彼らは「知っている」とは言ったのでしょうが、よく知らなかったと思います。

このこともまた、ホセア書全体を通じて重要な課題として取り扱われているように思うのですが、この「知っている」つもりで何も知らないという不信仰は、しょちゅう起こることであり、私にもその危険性があることを覚えておくべきだと思います。

 

私の友人は、通っていた高校がいわゆるミッション系で、週に一回は礼拝の時間があり、聖書の授業もあり、クリスマスは盛大な学校行事として催されていたそうで、「イエスの事はよく知っている」と言っていました。

そういう友人だからこそきっとわかってくれるだろうと、まだクリスチャンになって間もない私は、イエスの復活を中心とした福音を伝えたのですが、途中でさえぎられてしまいました。

もちろん、鼻息荒く伝えた私のその態度に問題があったのは言うまでもありませんが、「知っている」つもりの人への伝道の難しさに直面した瞬間でした。

 

私は牧師さんから初めて福音を聞いた時、イエスがいったい何故来られたのかの概要を知りました。

その後自分で聖書を読んだり牧師さんのメッセージを聞いたり、バイブルスタディに参加したり、伝道ミニストリーへの参加を通じて、神・イエスの詳細を知っていくことに入っていきました。

そして、今もその知っていく行為は続いており、それがこのQTでもあるわけです。

私は神のことを知っています。しかし、知らない事だらけです。だからもっと知りたいと思っています。

 

それからすると、その友人が「知っている」というのは、むしろ「知るつもりがない」に等しいのだなあと感じてしまいますが、当時のイスラエルの民もまた「知っている」つもりで、全く知らなかったのではないかと思います。

 

当時は、現代のような聖書はもちろんですが、トーラーのような律法を含んだモーセ五書も成立していないはずです。

ヨシヤの時代に律法の書が見つかり改革が行われますが、その時まで長い時間を律法の書無しでイスラエルの民たちは生きてきたことになります。

 

イスラエル王国時代がサウルから始まりますが、それまでイスラエルのリーダーは霊的リーダーでした。

聖書も無い律法の書も無いような状況では、そのような霊的リーダーがイスラエルを率いなければならなったのかと思います。

神を国家権力のように強権的に伝える必要があったのではと思います。

 

ところが、イスラエルの民たちの強い要望から、イスラエルに王が誕生し国を率いるようになりました。サウルです。

神を伝え教えるには、あまりにも役不足です。

その結果、イスラエルの民は「神を知っている」と言う民になってしまったのかも知れません。

 

さてそういう私もまた、「知っている」とうるさい者ではないでしょうか。

神については、むしろ何も知らないに等しいこと、知るためにはおそれをもって近づく他ないこと、そのためにイエスと共に。

それを覚える一日にしたいと思います。