1 「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。

2 主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。

3 私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。


4 エフライムよ。わたしはあなたに何をしようか。ユダよ。わたしはあなたに何をしようか。あなたがたの誠実は朝もやのようだ。朝早く消え去る露のようだ。

5 それゆえ、わたしは預言者たちによって、彼らを切り離し、わたしの口のことばで彼らを殺す。わたしのさばきは光のように現れる。

6 わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。

7 ところが、彼らはアダムのように契約を破り、その時わたしを裏切った。

8 ギルアデは不法を行う者の町、血の足跡に満ちている。

9 盗賊が人を待ち伏せするように、祭司たちは仲間を組み、シェケムへの道で人を殺し、彼らは実にみだらなことをする。

10 イスラエルの家にわたしは恐るべきことを見た。エフライムは姦淫をし、イスラエルは身を汚している。

11 ユダよ。わたしが、わたしの民の繁栄を元どおりにするとき、あなたのためにも刈り入れが定まっている。

 

1-3節は暗唱聖句にすべきだと思います。

やがて来る、イスラエルの神への立ち返りですが、このようにして神への信頼は成長のステップを踏むのだと思います。

神に信頼するかどうかという最初のステップは重要ですが、こうして次なるステップを踏んでいけるかどうかも超重要です。

 

3日目によみがえらせてくださるというのは、まさにイエスの復活がそのようにして起きたのですが、これが古い契約の時代であるこの時期に預言されているというのは意味深いです。

というのは、イエスはやはり、復活出来ているという点で神であること、われわれ人間と同じ体をもって肉体的復活を果たされた点で、人でも神にある者はその復活に与れるのだというディスプレイであられた=そのために人の形で来てくださったのだ、という風に思えます。

ほら、ちゃんと復活するのだよ、と、見せてくださったということだと思うのです。

 

復活というのは、気分的にとかこの世のものではない霊現象のように起こるのではなく、具体的に、この世の出来事として起こるということだと思います。

 

それが、人に備わった何かで達成されるようには到底思えません。やはり、神という人を創造された人の根拠であられる方によってのみなされるもののはずです。

人が持つべき希望はここにあります。

 

たとえ今が悲しみの底にあっても、死にたいほどの苦しみを抱えていても、この神はそういう人をご自分の手に戻すという目的を持っておられるお方だと思います。

それは、あのイエスをもって新しい契約を用意してくださっていることからも明らかです。

 

1日目の苦しみが3日目の復活になる。これもまた、神を信じる者にもたらされる型ではないかと思います。

今の悲しみ、苦しみは神にあっては=神を信じるならば、全て解決されることが約束されているということです。

 

もちろん、解決が何を意味するのか、または3日目がいつなのかも、人それぞれに神が決められていることですから、私にはわかりません。

ただ一つ言えるのは、最低限、やがて病気も苦しみも悲しも無い、そしてもう死ぬこともない体が与えられるということです。

私にはこれが大きな希望です。

 

少しLGBTの方のことについて考えますね。

クリスチャンのどれほどかわかりませんが、同性愛は罪であると断じます。

これは、聖書に記されているところからすると明白です。

ただ、同性愛が罪、というよりも、同性との性行為について罪として禁じているものです。

ではその行為に至る可能性を持っている方、つまり、男の体をもっているのに恋愛対象が男性である方というのは罪であって救われないのでしょうか。

そういう、身体的に同性が恋愛対象になってしまう方の事を神は愛されずにハデスに落とされることが定まっているのでしょうか。

 

聖書にはその答えはありません。

ですから、不用意な判断は禁物です。ただ、とても気の毒だと思っています。

 

私は、同性の結婚について反対の立場です。それが、生まれつきそういう身体的同性が恋愛対象になっている方同士であっても、絶対に反対です。

何故ならそれは、聖書が罪と定める同性でも性向を認めることになるからです。

 

また最近は、LGBTを新しい性別とする流れがどんどん強まっています。

それは性別のことではありません。

神は明確に男と女を創造されていますから、LもGもBもTも性でも性別でもなく、どういうわけか人間に起こってしまった現象です。

それは、絶対に性別ではありません。

 

だからこそ、その起こってしまった現象にさいなまれるLGBTの方々には、神に立ち返る理由があると私は思うのです。

もしも神が、身体的同性を恋愛対象としてしまう方にもあわれみをかけてくださるお方であるなら、神に立ち返れば罪は赦してくださいます。

そして、あの3日目によみがえられたイエスの希望に立つべきです。

やがて、1度肉体の死を経験しながらも、イエスを信じることによって新生された霊をもって、あたらしい体が与えられます。それはもう完璧な体です。

 

そして私は、神はLGBTの方も当然に愛しておられるのだと思いたいです。

だから「さあ、主に立ちろう」満たされることのない性欲などの欲を貪ることをさしおいて、本当の満たし、永遠の満たしを用意して待ってくださる神に立ち返ることが、最善の道であると思います。