1 イスラエル人よ。主のことばを聞け。主はこの地に住む者と言い争われる。この地には真実がなく、誠実がなく、神を知ることもないからだ。
2 ただ、のろいと、欺きと、人殺しと、盗みと、姦通がはびこり、流血に流血が続いている。
3 それゆえ、この地は喪に服し、ここに住む者はみな、野の獣、空の鳥とともに打ちしおれ、海の魚さえも絶え果てる。
4 だれもとがめてはならない。だれも責めてはならない。しかし祭司よ。わたしはあなたをなじる。
5 あなたは昼つまずき、預言者もまた、あなたとともに夜つまづく。わたしはあなたの母を滅ぼす。
6 わたしの民は知識がないので滅ぼされる。あなたが知識を退けたので、わたしはあなたを退けて、わたしの祭司としない。あなたは神のおしえを忘れたので、わたしもまた、あなたの子らを忘れよう。
7 彼らはふえるにしたがって、ますます、わたしに罪を犯した。わたしは彼らの栄光を恥に変える。
8 彼らはわたしの民の罪を食いものにし、彼らの咎に望みをかけている。
9 だから、民も祭司も同じようになる。わたしはその行いに報い、そのわざの仕返しをする。
10 彼らは食べても、満たされず、姦淫しても、ふえることはない。彼らは主を捨てて、姦淫を続けるからだ。
預言された神のことばですから、その真意をまたもやググって神学的に捉えることは必要なことかも知れません。
ただ、今日のみことば、こうして切り取られたみことばから鮮烈に伝わってくるものは、罪の正体のようなものです。
神がご自分が向けられる愛を、婚姻関係にたとえられ(たとえではなく本当にそうだと思いますが)たのが前日のQTでのみことばでありますが、今日のみことばでは、その神の愛に背を向ける、或いは見ようとも知ろうともしないことは、姦淫=性的貪欲を根とする罪の生い茂りのようなものなのだと受け取りました。
つまりこれ、性欲の取り扱いのことじゃないのか、と思うのです。
クリスチャンの中でも色々な論争はあるものですが、その中で、この性の取り扱いについては論争の的となることがよくあると思います。
しかし、ここにその答えの一つがここにあるように思いました。
「姦淫しても、ふれることはない」ということであり、それは主を捨てた姦淫、つまり子を宿すための性行為ではなくただ快楽を得るためだけの性行為にふける、ということです。
そしてその性質は、食と同じく「満たされない」ということも言えるかと思います。
ホセアの時代は、アハズ、ヒゼキヤの時代ですから、南北に分かれたイスラエルの王国時代なのですが、このイスラエルの王の性質としてよく上げられるのは、女性にだらしないということです。
あのダビデでさえ、女性関係でとんでもない罪をしでかしていますし、イスラエルに空前絶後の繁栄をもたらしたソロモンは酷いものでした。
その後、北イスラエルに登場した王はほとんどが偶像礼拝に没頭したタイプですし、その偶像礼拝は、とんでもない性的堕落を正当化するようなものでした。
私は、妻以外の女性と性行為を持ったことありませんし、これからも持つことがありません。
しかし、性行為を持ちたくないのではなく、そんなことはだめだからしないのです。火種だけは残念ながらあります。
この火種は、火種の時点でも簡単に罪になりえるのだと言うことを、イエスが言及されていました。
想像しただけでも姦淫していると言われます。
私はもう悲しいほど、この戦いばかりなのです。
ここで私に問われるて投げかけられることは、それは、がんばりが足りていないということではありませんね。
すではなく、もっとしっかり神を見ること、神につながることで、それは神を知的に理解するということにとどまらず、深い所に入っていくように知っていけよ、ということだと思います。
つまりその深みは、与えられるに値しないものが与えられるという、神からの愛のことなのだと思いますし、神が言われる婚姻とはそういう関係性のことなのかなと、漠然とはしていますが、見えてくるのです。
そして、王国時代に王が率先して行った性的堕落に根を持つ罪とはつまり、満たすことの出来ない欲をひたすら満たそうとしていたということで、神につながっていくこと・神が言われる婚姻の関係に入ることというのは、全てが満たされるということであると教えられます。
今日のみことばからは、そのままですが、性の扱いについてのチャレンジです。
インターネットは本当に危険地帯です。特に私は、仕事でPCをずっと使っているので、誘惑が入ってくることが結構あります。
私が出来ることは、とにかく閉ざすこと。遠ざかること。
そのように決めることです。
或いは、週末ですから、家内との時間をもっと増やすことも出来るように思います。
これは、がんばりと言えばがんばりになりますが、私が出来ることはその決心までです。
その継続においては、神に力に頼るしかありません。
満たされないものを満たそうとするのではなく、満たされるべきものに満たされるように、信仰を働かせたいと思います。