22 エルヤシブの時代に、レビ人エホヤダ、ヨハナン、ヤドアは、一族のかしらとして登録され、また、ペルシヤ人ダリヨスの治世に祭司として登録された。
23 レビの子孫で、一族のかしらたちは、エルヤシブの子ヨハナンの時代まで、年代記の書にしるされていた。
24 レビ人のかしらたちは、ハシャブヤ、シェレベヤ、およびカデミエルの子ヨシュアであり、その前方に彼らの兄弟がいて、組と組が相応じて、神の人ダビデの命令に従い、賛美をし、感謝をささげた。
25 マタヌヤ、バクブクヤ、オバデヤ、メシュラム、タルモン、アクブは門衛で、門の倉を見張っていた。
26 以上はエホツァダクの子ヨシュアの子エホヤキムの時代と、総督ネヘミヤ、および、学者である祭司エズラの時代の人々である。
27 彼らはエルサレムの城壁の奉献式のときに、レビ人を、彼らのいるすべての所から捜し出してエルサレムに来させ、シンバルと十弦の琴と立琴に合わせて、感謝の歌を歌いながら喜んで、奉献式を行おうとした。
28 そこで、歌うたいたちは、エルサレムの周辺の地方や、ネトファ人の村々から集まって来た。
29 また、ベテ・ギルガルや、ゲバとアズマベテの農地からも集まって来た。この歌うたいたちは、エルサレムの周辺に自分たちの村々を建てていたからである。
30 祭司とレビ人は、自分たちの身をきよめ、また民と門と城壁をきよめ。
今年の前半は列王記QTが続いたのですが、そこから感じ取った事の一つとして、神は作法に厳しい、というものがありました。
厳密にはそういうことではないのですが、祭司の役割を王がやってしまったことについて厳しく取り扱われたことから思い出し、そう言えば、律法に定められた作法を守らなかった者で命を取り去られたケースは複数あるなあ、と思い出したのです。
この新生イスラエルは、「律法に忠実に」ということがよくわきまえられていることがわかるのが、今日のみことばです。
今日はそういうことで、律法に忠実であるとはどういうことなのかを考えました。
まず、その作法についてです。
先日、インクジェットプリンターを購入したのですが、うちの家内がセットアップしようとしていたのですが、うまくいきませんでした。説明書を読まずにやっていたのです。
家内はそういうところがあります。マニュアルとか説明書を読まずに物事を進めて「あれうまくいかない」ということで、私がやることになるケース。
このプリンターの件、私が説明書通りに進めたところ、何の問題もなくセットアップ出来ました。
神がモーセを通じて民与えた律法は、罪の定めのイメージが強いのですが、これらを完璧に守ることは難しいものです。
しかし、その私が言うところの作法については、読めばわかるし守る意思があれば守れるもの、なのではないかと思うのです。
律法のことを、これからよく知っていかなければならない身で、これを断じることは出来ないのですが、そういうものである気がするのです。
律法を読む、理解する。これは、神に従うことを決める姿勢と言えます。
自分の経験則とか志向に任せて物事を進行させることとは真逆の姿勢と言えます。
つまり、その作法を守らなかったというのは、律法を読まず(存在すら知らず)神に従う”つもり”すらないということなのかなあ、と思いました。神を無視する姿勢ということです。
新生イスラエル、捕囚帰りのイスラエルの民にもたらされていた信仰の核心は律法によってもたらされたと言ってよいと思います。
そしてそれを厳格に守ろうとしている姿勢、作法を詳細に守るという姿勢が、歌うたいたち、レビ人の招集に現れているというのが今日のみことばでした。
作法について神が厳しい・・・などという見立ては、今後、みことばを確認しながら教えられていきたいと思います。
今日のみことばからは、歌をうたう、ということが目に留まりました。
賛美はよいものですね。何が良いかと言うと、みことばをごっそり覚えることになるからです。
以前、歌の奉仕をしていたことがありました。
日本語だけではなく、英語での礼拝式もありましたので、本当に沢山の賛美を歌いました。その中で覚えることが出来たみことばは、かなり多いのです。
日本の賛美で、そう古くないものですが、リーダーであった姉妹が教えてくれました。詩編23編をほぼまるごと歌うものがあります。長沢さんのやつかな。私の宝の歌になっています。
歌をうたう。
どう歌おうかと思いますが、1曲覚えようと思います。
新しい教会でのコミュニケーションは、割と出来るようにはなってきましたが、歌を準備していくことで、もしかするともう一歩進めるかな、とか。
信じて進みます。
日記的に記すのですが、昨日は、宣教師さん複数人と会食する機会に恵まれました。
3名様でしたが、いずれも70-80歳の高齢の方たちでした。
日本人ではない方々でしたが、みなさんとても穏やかで、純粋にイエスを慕う方なのだなあと思いました。
色々な世の中のことで一喜一憂してしまう心の弱さのある私ですが、いつかあのようになりたいと思わせてくださる方々で、感謝に溢れましたし、励ましでもありました。
日本から離れて外国に来て、現地の高齢クリスチャンの方々に触れ、心が洗われています。
パウロは、練られた品性について言及していますが、それって実は情熱の方向性がどんどん神に集中していくことなのではないかなあ、とか、思わせられるところです。
そのような方々の表に出てくる姿や言葉は、とても美しいものなのだと感心します。