13 二日目に、すべての民の一族のかしらたちと、祭司たち、レビ人たちは、律法のことばをよく調べるために、学者エズラのところに集まって来た。

14 こうして彼らは、主がモーセを通して命じた律法に、イスラエル人は第七の月の祭りの間、仮庵の中に住まなければならない、と書かれているのを見つけ出した。

15 これを聞くと、彼らは、自分たちのすべての町々とエルサレムに、次のようなおふれを出した。「山へ出て行き、オリーブ、野生のオリーブの木、ミルトス、なつめやし、また、枝の茂った木などの枝を取って来て、書かれているとおりに仮庵を作りなさい。」

16 そこで、民は出て行って、それを持って帰り、それぞれ自分の家の屋根の上や、庭の中、または、神の宮の庭や、水の門の広場、エフライムの門の広場などに、自分たちのために仮庵を作った。


17 捕囚から帰って来て全集団は、仮庵を作り、その仮庵に住んだ。ヌンの子ヨシュアの時代から今日まで、イスラエル人はこのようにしていなかったので、それは非常に大きな喜びであった。

18 神の律法の書は、最初の日から最後の日まで、毎日朗読された。祭りは七日間、祝われ、八日目には定めに従って、きよめの集会が行われた。

 

黙示録に記される「はじめの愛」を思い起こします。

帰還したイスラエル人のこれらの行動は、あの「はじめの愛」と似たものではないでしょうか。

 

神から受けた愛、神を愛する愛。

愛する者は従います。

ここに神を信じることと、神との関係性における本質があると思います。

 

エズラによって律法をわかりやすく説明された民ですが、「もっと知りたい」という衝動にかられています。

 

そしてさらに、「何をしたらよいのか」という次の神と共に歩む行動内容を求めています。

仮庵、つまり家を作るという事業を展開しました。

これは大きな事業ですが、既に城壁の修復という大事業を完遂していたので、スムーズであったのかも知れません。

そういう思うと、あの城壁修復は、神に従うレッスンであったのかも知れません。

 

そして、祭事を頑なに守っています。

つまり、「神に従う」民となっています。

これが、捕囚から帰ってきたイスラエルの民たちが、神からモーセに与えらえた律法をよく知った後の応答でした。

 

いやあ素晴らしい信仰!と思うのですが、それでも最初に「はじめの愛」と置きたい気持ちが出てくるのは、神の正義、聖、崇高さ、或いは恐ろしさ律法を通して知ると共に、そこから「愛」を知っていることがとても重要だと思うからです。

 

イエスがこの世で生きておられた間、律法主義者と言われるユダヤ教の支配層がいましたが、そのような形になってしまった大きな原因は、そこにあるのではないかとも思います。

神の愛を知る。神が親であることを知る、霊的に悟る。そこから出てくる行動でなければ、神の御心から歪んでいくということです。

神ではなく、人間オリジナルの律法を作り出して、それを守らせる側を権威化、利権化されたのが律法主義です。ものすごい歪みです。

 

その上で、自分に示されている律法とは何かを思うと、それはもうイエスが上がられる前に言われたことになってきますが、これもまた、神、イエスの愛への応答としてライフスタイルにしていくことが、私の人生であると思います。

 

神の愛、湧き出てくる神への愛。このことが、イスラエルの民たちの行動から喚起されました。

バビロン捕囚の実と言えますね。

 

今日のみことばからは、そういうことで、兄弟を愛することを覚えたいと思います。

イエスがやはり上がられる前に言われたことです。

私がどういう人間か、思いを持っているかは一旦置いといて、愛するイエスが言われているのだから、というただその理由で、兄弟を愛したいと思います。