14 また、私がユダの地の総督として任命された時から、すなわち、アルタシャスタ王の第二十年から第三十二年までの十二年間、私も私の親類も、総督としての手当てを受けなかった。
15 私の前任の総督たちは民の負担を重くし、民から、パンとぶどう酒のために取り立て、そのうえ、銀四十シェケルを取った。しかも彼らに仕える若い者たちは民にいばりちらした。しかし、私は神を恐れて、そのようなことはしなかった。
16 また、私はこの城壁の工事に専念し、私たちは農地を買わなかった。私に仕える若い者たちはみな、工事に集まっていた。
17 ユダヤ人の代表者たち百五十人と、私たちの回りの国々から来る者が、私の食卓についていた。
18 それで、一日に牛一頭、えり抜きの羊六頭が料理され、私のためには鶏が料理された。それに、十日ごとに、あらゆる種類のぶどう酒をたくさん用意した。それでも私は、この民に重い労役がかかっていたので、総督としての手当てを要求しなかった。
19 私の神。どうか私がこの民のためにしたすべてのことを覚えて、私をいつくしんでください。
私は政治のことには疎いのですが、自民党に発覚した例の裏金の問題で、裏に回って議員やらが懐に入れたか使途がわからなくなったような金のことについて、「政治に使った」だけで済まされていることには不満を抱かずにはいられませんでした。
いくら法律でそのようにすればお咎めなしされているにしても、帳簿に跡形がつかない=暴力団に手渡しても・票を買収しても
・高級な物品を購入しても・不倫相手の生活費にしてもわからない金が存在していたことが判明しているわけですから、政権を担当する与党の責任としては当然ですが、国会議員の倫理として、少なくとも税務申告はすべきではなかったかと思うからです。
まあ、こういう思いには私がクリスチャンになる前の、税務調査官による「おみやげ」徴収で色々ありましたから、そういう恨みみたいなものも影響はしています。
取れるところは取って、取りにくいところは取らないという国税体質に嫌気がさしているのです。
たま税務署は別としても、国家財政がしんどいという理由で、国政の導きによって税金をじわじわ上げているのですから、それを担う政治家、政権与党にはあってはならないことではないかと思うのです。
ちなみに私は、なんでも反対の左翼ではありません。
さてどうでもよい話になりましたが、ネヘミヤの姿勢は、これの真逆です。
民が苦しんでいるのだから自分は給金を取らない、という姿勢です。
しかも、ネヘミヤの家族まで取っていないのです。
ネヘミヤの取るべき給金がどれほどであったかはわかりませんし、ネヘミヤ一人がとかその家族が給金を取らないことで、財政が良くなるというものでもなかったのではと思います。
しかし、ここに共に重荷を担うという信仰から現れる精神が感じられます。
そしてネヘミヤは、特権を利用して贅沢に暮らして威張るようなことをせずに、そのようにして民と重荷を分かち合う姿勢を示したのは「神をおそれて」のことであると言います。
神のみこころだと言うことです。とても重要なことが示されていると思います。
またもう一つ、ネヘミヤは民を統率する知恵として、中間管理層と言えるユダヤの代表をもてなしています。
彼らには牛肉や上等な羊の肉、つまり肉のうまみの詰まった肉がふるまわれているのにネヘミヤ本人はあっさりした鶏肉を摂っています。いわゆる、人心掌握の知恵ですね。
”それでも”給金を受けなかったと言っているところからすると、それらがネヘミヤの自腹で用意されていたものであることがわかります。
最後のネヘミヤの言葉も重いものですね。
こんなにも民に尽くしているから、私をいつくしんで欲しいと神に願い出ているのです。
これが神の目に正しいことであるか、そうでないかはここではまだわかりませんが、救い(つまり永遠のいのち)の交換条件としてではなく、現在進行中の神との関係性において「がんばっているから神様いつくしみを!」と願い出るのは”あり”なんだと思います。
見返りを求めない善行は、確かに素晴らしいことだと思います。
しかし、善行とか正しいことを思い切って行う時には、動機が必要なこともきっとあります。
善行をしてあげる相手に何かを求めずに、神に対して「いつくしんでください」と願うのは御心ではないでしょうか。
今日のみことばからは、1つに集中する、ということを学びます。
ネヘミヤは、農地開拓も、ではなく、城壁の再建に集中したとあります。
これは、言い換えれば、優先順序の決定とも言えます。
優先にやるべきことにまずは集中していきたいと思います。