ときに、民とその妻たちは、その同胞のユダヤ人たちに対して強い抗議の声を上げた。
2 ある者は、「私たちには息子や娘が大ぜいいる。私たちは、食べて生きるために、穀物を手に入れなければならない」と言い、
3 またある者は、「このききんに際し、穀物を手に入れるために、私たちの畑も、ぶどう畑も、家も抵当に入れなければならない」と言った。
4 またある者は言った。「私たちは、王に支払う税金のために、私たちの畑とぶどう畑をかたにして、金を借りなければならなかった。
5 現に、私たちの肉は私たちの兄弟の肉と同じであり、私たちの子どもも彼らの子どもも同じなのだ。それなのに、今、私たちは自分の息子や娘を奴隷に売らなければならない。事実、私たちの娘で、もう奴隷にされている者もいる。しかし、私たちの畑もぶどう畑も他人の所有となっているので、私たちにはどうする力もない。」
6 私は彼らの不平と、これらのことばを聞いて、非常に怒った。
7 私は十分考えたうえで、おもだった者たちや代表者たちを非難して言った。「あなたがたはみな、自分の兄弟たちに、担保を取って金を貸している」と。私は大集会を開いて彼らを責め、
8 彼らに言った。「私たちは、異邦人に売られた私たちの兄弟、ユダヤ人を、できるかぎり買い取った。それなのに、あなたがたはまた、自分の兄弟たちを売ろうとしている。私たちが彼らを買わなければならないのだ。」すると、彼らは黙ってしまい、一言も言いだせなかった。
9 私は言い続けた。「あなたがたのしていることは良くない。あなたがたは、私たちの敵である異邦人のそしりを受けないために、私たちの神を恐れながら歩むべきではないか。
10 私も、私の親類の者も、私に仕える若い者たちも、彼らに金や穀物を貸してやったが、私たちはその負債を帳消しにしよう。
11 だから、あなたがたも、きょう、彼らの畑、ぶどう畑、オリーブ畑、家、それにまた、あなたがたが彼らに貸していた金や、穀物、新しいぶどう酒、油などの利子を彼らに返してやりなさい。」
12 すると彼らは、「私たちは返します。彼らから何も要求しません。私たちはあなたに言われるとおりにします」と言った。そこで、私は祭司たちを呼び、彼らにこの約束を実行する誓いを立てさせた。
13 私はまた、私のすそを振って言った。「この約束を果たさない者を、ひとり残らず、神がこのように、その家とその勤労の実とから振り落としてくださいますように。このように、その者は振り落とされて、むなしいものとなりますように。」すると全集団は、「アーメン」と言って、主をほめたたえた。こうして、民はこの約束を実行した。
正直なことを言いますと、常識的に考えると、金を借りる方が悪いとか、金を借りて返せなかったら抵当に入れたものを取られても仕方ない、という風に思ってしまうのです。
これ、私も金融を営んだものですから、染みついているものって恐ろしいなと思います。
染みついているもの、というのは、金を主体とする考え方、もっと言えば金を拝む性向です。
金の扱いについてのどうこうばかりを考えてしまい、本当の神、人を見失っていると言えます。金に操られているようなものですね。
でもこの金を拝む性向は、現代社会でも横行しているものです。
私が正直なこと、としている考えは、現代社会でも当然とされることではないでしょうか。
本来あるべき姿について、特に、神にある者同士、クリスチャン同士の関係性においてのあるべき姿をネヘミヤは叱責の中で示してくれていると思います。
金の貸し借りをしないとかそういうことではく、抵当を取るとか取らないとかそいう次元でもなく、苦しみ・重荷を分かち合えよ、ということかと思います。
金を拝むのではなく、神を拝むということです。
ネヘミヤはここでリーダーとして決定的な態度を示しています。
それは、王国イスラエル時代の王とは全く違うものです。
自分から犠牲を差し出すことで、それに倣えと言うのです。
そして、金貸したちはそれに倣って、差し押さえたものを借り手に返すと約束しました。
神は喜ばれたでしょうね。
金の理屈から離れることは至難のわざと言えます。
この世の中は、金が神の世界です。
金がたくさんあれば、まるで神に近く、金がなければ遠い。そんな価値観の世界です。
しかし、本当はその逆であるケースが多いことと、神の存在とその権威と金は全く無関係であることをネヘミヤは自らの犠牲をもって示しています。
私もこれに「アーメン」ですね。
今日の適用は、金から離れる、です。
異国の地での生活が始まり、物価の高さや為替相場の影響もあり、金についてはいつも考えてしまう日々です。
しかし、一旦そういうことから離れてみようと思います。
金の事を気にしないというよりも、神を気にするということです。
私自身はもちろん、家族、地域、世界中の神の完全なる統治を祈ります。