13 こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。
14 兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となったのです。彼らがユダヤ人に苦しめられたのと同じように、あなたがたも自分の国の人に苦しめられたのです。
15 ユダヤ人は、主であられるイエスをも、預言者たちをも殺し、また私たちをも追い出し、神に喜ばれず、すべての人の敵となっています。
16 彼らは、私たちが異邦人の救いのために語るのを妨げ、このようにして、いつも自分の罪を満たしています。しかし、御怒りは彼らの上に臨んで窮みに達しました。
17 兄弟たちよ。私たちは、しばらくの間あなたがたから引き離されたので―といっても、顔を見ないだけで、心においてではありませんが、―なおさらのこと、あなたがたの顔を見たいと切に願っていました。
18 それで私たちは、あなたがたのところへ行こうとしました。このパウロは一度ならず二度までも心を決めたのです。しかし、サタンが私たちを妨げました。
19 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。
20 あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。
今日のみことばの冒頭にあることが、基本中の基本、とても重要事項であると思います。
新約聖書が成立していない時代、教会開拓のためにイエスを伝えることが使徒たちの仕事でしたが、その使徒たちの言葉を「神のことば」として受け取ることです。
今は新約聖書が旧約聖書とセットされていて、今の完成された神による「救い」の一部始終を手軽に知ることが出来る時代です。
これを「神のことば」として受け入れなくて、何が力に成りえましょうか。
生き方、考え方、金の儲け方と言うような哲学書やハウトゥものとして受け入れてしまうなら、最も大切なものを得ることが出来ません。
安い言い方になってしまいますが、これを神のことばとして受け取る”コツ”があります。
聖書を歴史の教科書だと考えることです。
歴史の教科書というのは、色々と問題にあがることもあるのですが、それほど影響力の強いものです。
個人にダウンロードされる歴史的事実というのは、実はほとんどが歴史の教科書からのものだからです。
猿が長い年月をかけて人間に進化したとか、生命体ですらなかったものが自然現象で生命を得るようになったとかは、昨今の「エビデンス」を重んじる社会的傾向からすると、猛烈に批判されそうな進化論も、歴史の教科書で習ったことの影響により、まるで科学的に立証されたことであるかのように受け入れています。
ただ文字で書かれていたことや、絵に描かれていたことを参考にし、大部分が創作された事柄についても、やはり歴史の教科書に収載されているからという理由で、事実であったのだと認識が植え付けられています。
同じように、聖書を受け入れることです。
神が人を創造されたこと、その最初の人の神に対する背信の罪によって罪と共に死が人に入ったこと、ノアの洪水の出来事、アブラハム契約、イスラエルの出エジプト・・・・イエス・キリストの誕生、十字架、そして復活・・・・全部を実際にあったのだと受け入れることによって、神を受け入れることになります。
そして、今日のみことばにある通り、ユダヤは、教会というかこの手紙の著者であるユダヤ人パウロ自身が迫害を受けています。
なぜならパウロは、聖書を歴史的事実と受け入れたのではなく、イエスとの直面を語ったからです。
このことは、現代で「聖書に書かれていることは全て歴史的事実である」と宣言すれば起きる現象と、傾向としては同じようなものです。
「あいつは深いところまで行ってしまった・・・」という扱いを受けることになります。
しかし16節にある、そういうパウロのユダヤ人ではない外国人への宣教(欧州テサロニケはじめ)活動を妨害するという、口伝律法を背景としたユダヤ人らの罪に対して、この手紙からそこまで長くの時間を経ず神の怒りが下されています。
西暦70年代にローマ帝国がイスラエルコミュニティを破壊、IDとも言えるエルサレム神殿もぶっ壊されてしまうのです。神の力です。
昨日、クリスチャンではない人たちとの会合に勇んで参加しました。
何か、神のことばを置いてきてやろう、イエスをにおわせることをしようとか、そういうことを期待していたのです。
ところが、自分が残念なのですが、あまり大したことを言えなくて自分に失望しました。
ただ、帰宅時の電車でご一緒した人に、自分がクリスチャンであること、教会に通っていること、その人の家と地縁のある教会に行ったことがあるなど、わずかに話をすることが出来ました。
その反応はいまいちで、あわてて話題を変えられてしまったのですが、あとは神の力におまかせしようと思います。
これは、罪に対する神の怒りが窮みに達したからエルサレムを破壊されたこととはまた違うのですが、聖書掲載の事項を歴史的事実であると認めることで神のみことばにとどまる者は、その怒りにしても期待にしても願望にしても、神の力に頼るということです。
パウロは剣を手にしてユダヤ人と戦ったわけではありません。ただひたすら、自分が経験した事実と信じたことをずっと伝えてまわりました。
ペテロ(多分)はイエスが祭司長ら一味に捕らえられようとした時、剣を抜いてその一味の一人の耳を切り落としましたが、イエスがそれを止めて、むしろその落とされた耳を治されました。
聖書を歴史の教科書と捉えてみことばに留まること。神に留まること。
それに対する世の反応にいちいち抵抗で応えず、神に委ねること。
これは時に、死を受けることにまでつながることを、パウロはその足跡で示していますが、死を選ぶべきということではありません。
ただ、聖書掲載の事柄を歴史的事実と捉えた結果、死を恐れずに、生を捧げるという言動に達した結果です。
聖書によれば、イエスを信じる者は、肉体が朽ちても霊は生き、やがて肉体が再び与えられると言っているのですから。
そして、イエスは既に復活されることでそれを証明されています。
つまり、聖書から現段階で受けることが出来る最も大事なものとは、救いであり、死をおそれない心理状態であり、神の御心に従う言動、最後の結果を神に委ねるという帰属なのだと確認しました。
目指して今日も生きようと思います。