ある日、エリシャがシュネムを通りかかると、そこにひとりの裕福な女がいて、彼を食事に引き止めた。それからは、そこを通りかかるたびごとに、そこに寄って、食事をするようになった。
9 女は夫に言った。「いつも私たちのところに立ち寄って行かれるあの方は、きっと神の聖なる方に違いありません。
10 ですから、屋上に壁のある小さな部屋を作り、あの方のために寝台と机といすと燭台とを置きましょう。あの方が私たちのところにおいでになるたびに、そこをお使いになれますから。」
11 ある日、エリシャはそこに来て、その屋上の部屋に入り、そこで横になった。
12 彼は若い者ゲハジに言った。「ここのシュネムの女を呼びなさい。」彼が呼ぶと、彼女は彼の前に立った。
13 エリシャはゲハジに言った。「彼女にこう伝えなさい。『ほんとうに、あなたはこのように、私たちのことでいっしょうけんめいほねをおってくれたが、あなたのために何をしたらよいか。王か、それとも、将軍に、何か話してほしいことでもあるか。』」彼女は答えた。「私は私の民の中で、しあわせに暮らしております。」
14 エリシャは言った。「では、彼女のために何をしたら良いだろうか。」ゲハジは言った。「彼女には子どもがなく、それに、彼女の夫も年をとっています。」
15 エリシャが、「彼女を呼んで来なさい」と言ったので、ゲハジが彼女を呼ぶと、彼女は入口のところに立った。
16 エリシャは言った。「来年の今ごろ、あなたは男の子を抱くようになろう。」彼女は言った。「いいえ、あなたさま。神の人よ。このはしために偽りを言わないでください。」
17 しかし、この女はみごもり、エリシャが彼女に告げたとおり、翌年のちょうどそのころ、男の子を産んだ。
エリシャに関連する出来事が続きます。
昨日は、亡くなった預言者仲間の妻子が受けためぐみについての話でしたが、今日は金持ちの女の話。
よく通りかかる神の人エリシャをもてなしています。
後の文面からすると、もうそれなりに歳を経ている老夫婦の奥様のようです。
あわれみをかけて食料で施したりということはあると思うのですが、エリシャはどのような風体であったのでしょうか。
エリヤが毛皮をまとった一風変わった様子であったことがわかりますが、エリシャもまた、自分の風に気をつかうようなタイプではなかったでしょう。
そのようなエリシャに目をつけてあわれみをかけて、というよりも、何か神の役に立ちたいとか、そういう用いられ方の一環として、裕福な金をエリシャを養うことに費やしていたのでないのかな、と思います。
大事なことは、当たり前のように乱れた偶像礼拝の当時のイスラエルにあって、この女性には信仰があったということです。
そしてエリシャは、自らの意思なのか、神からのお達しなのか、ちょっとわかりかねるのですが、この女に何かしてあげようとしています。彼女は、もう十分に幸せに暮らしていると言うのですが、金があるけど子供がいない、という心の暗部のエリシャに見抜かれています。
その、最もどうしようもない部分、信仰をもってしても希望になりにくい、子供を得るということをエリシャは実現しました。
この時、裕福な妻は信仰を働かせたのではなく、神かエリシャの思いの部分で実現しています。
実は昨日、とある体の不調の件で医者に行きました。
先々週から精密検査を受けるなどし、とりあえずは命に係わるような病気ではないことがわかったのですが、症状緩和のためには手術が必要であることが、視診時も検査後にも医師から告げられており、昨日は、数日間の薬剤投与後の状況確認と、その手術の日程を決めに行ったのです。
私の祈りは、ここ1か月程は神のあわれみを求めて、症状を和らげてください、経済的にも時間的にも困難な手術や入院を回避させてください、というものに集中していました。
ところがそのような診断の流れになっていたし、症状緩和も根治治療も受けて置くべきだと認識し、あとはどう金を用意するか、8月末に予定していた一大事をどのようにするのかなど、悩みが頭をもたげていました。
2日前のQT、エリシャがいら立ちを竪琴の音で落ち着かせたというみことばがあったのですが、私はその症状が出てしんどいかったので、ユーチューブで賛美の竪琴演奏を探し出してそれを聞きました。
耳にやさしいというか、音楽を聴きながら仕事などをすることは苦手なのですが、あの竪琴演奏はあまり気にならなかったため、午前中はずっとかけていました。
ただ、症状が落ち着いたのかと言うと、はっきりと改善したという程ではありませんでした。
そして昨日を迎えたのですが、委ねる心をもちながらも、重たい気持ちで診察に出向きました。
医師は機器を使って私の症状部位を確認すると、「ああこれは手術は急がなくてもよさそうですね~」と言うのです。
「とりあえず、8月末までに手術をしなくてはならないということは無いと思ってください、薬で抑えることが出来そうですよ」と。
信じられないというか、頭が真っ白になった気分で、すぐに「イエスだ!」と思い感謝しました。
私には、状態が良くなっているという自覚が無かったし、症状も出ていました。
手術はもう決まっているも同然の覚悟でありました。
それでも、神はあわれみをかけてくださったのだと思います。
家内と家内の母は、祈り続ける中で、手術は回避出来ると思っていたようですが。
そして、その症状についても、昨日劇的な緩解する方法を見つけました。
これは医師のアドバイスによるものでしたが、薬を使わずとも、生活に支障のないレベルまで症状を和らげることが出来そうです。
神に感謝します。イエスに感謝します。
今日のこのみことばに記される裕福な女に注がれためぐみから、神の目にうつる必要や得るべきものと、人間のそれらとは違うことがわかります。
裕福な女は、人間的に自分自身を見つめると、満たされていると考えていました。
しかし、実のところ、子がいないというどうしようもない渇きを持っていました。
子はこの女や夫に絶対に必要なのでしょうか。
今までずっと子がいないまま過ごしてきて、高齢になって子が必要かと言えば、そうでもないのかなと思います。
しかし、神の目には必要を超えてもたらされるめぐみの理由があるのだと思えるのです。
だとすると、ちょうど似たケースで起こった私に与えられた神のめぐみにも理由があるはずです。
手術を回避した理由です。神の理由を求めていきたいと思います。