1 預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」

2 エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」

3 すると、彼は言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません

4 家に入ったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」

5 そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ。

6 器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません」と言うと、油は止まった

7 彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」

 

油の方に心が向いてしまうのですが、この時代の預言者たちの状況について、まずは思いを巡らせました。

 

預言者の”ともがら”という表現が何回も登場しているのですが、これを調べると、これは預言者の仲間という意味のようです。

だいたいそんなものということは感覚的にわかっていましたが、思わされることは、この時代、ともがらの重要さです。

 

特に北イスラエルでは、偶像礼拝が横行しているような状況で、王の気に入った言葉を吐く偽物の預言者がむしろ表社会で活躍していたように思います。

 

その中で、本当にイスラエルの神のみことばを伝える役割を中心とし、霊の民イスラエルが潰えないように守っていたとも言えるのが、エリヤでありそれを継いだエリシャであり、そしてそのともがら達であったと言えます。

 

今日のみことばにあるそのともがらが、借金苦にあったというのは、何かそういう世相の反映なのかとも思うのですが、神の救いが残された妻子にもたらされています。

 

一週間前、神学校を卒業した後、現在は遠隔地の教会で仕えている兄弟とその奥様と久々に面会しました。

 

仕えて2年程でしょうか。大変な日々であることがよくわかりました。

耳を疑ったのですが、信徒らからの攻撃とも取れる扱いがあって、それに心病む思いであると。

 

福音宣教に燃える兄弟は、ただ信徒に対して優しかったり寛容であったり、そういう親切を提供する教会である前に、正確な福音を伝えることで信徒がしっかりとイエスを受け入れて信じ、行動が伴う信仰者へと共に成長する教会であることを目指しています。その態度としては、厳しさのある牧師さんということになります。

お客扱い然としたホスピタリティを求めている信徒らには、ウケが良くないようですね。

 

そのような状況で、精神的に大丈夫なのかとたずねると、かなり窮地ではあるけれども、だからこそよく祈るし、同じ志の信徒もいて支えてくれるのが嬉しいし、実はそんな状況でも信徒が少しずつ増えているからやりがいがあると言いました。しかも、若い人が来ているようです。

 

北イスラエルの偶像礼拝が常態化している最中に、エリシャら本物の預言者たちが、神のことばをそのままに預言すれば、王にとっては厳しいものにしかならないことが、これまでの列王記の記述からもわかります。

そして、エリヤは命を狙われました。

 

ではその預言者たちはどんな心の状態であったのだろうか、というと、私の友人兄弟の牧会の話ではないですが、窮地ではあるけれど、霊は燃えていたのではないか、と思うのです。

エリヤが上げられる時に、神の軍勢が現れました。火の騎士。

地上の軍とは比較にならないほど強力で激しい神の軍勢が、それを象徴しているようにも思えます。

 

だからこそ、今日のみことばのこの預言者のともがらの話。

これは静かな話のように見えますが、同志であるエリシャの仲間思いがわかりますし、神のあわれみや励ましは激しく注がれている気がしてなりません。

神は、時が良くも悪くも、実直に仕えるという信仰をもって、その信仰者を守られて報いられるお方であることがわかりました。

そのことをわかってか、預言者とそのともがらの結束も感じました。

 

さて、油の話ですが、ここに神のめぐみの性質が現れているように思います。

あわれみによって、信仰者に注がれた神のめぐみは、器を用意すれば用意しただけ注がれたのでした。

神のめぐみは、足りない分を充足するものではなく、溢れんばかり注がれるものであることは、福音をものにしている方ならわかったもらえると思います。

 

このともがらの妻が求めたのは、借金のかたに、子を奴隷として捕らえられることから守ってもらいたい、ということでした。

不足分の充足であるなら、借金を返せるだけの油であったはずです。

 

ところが、それどころか、その家族が”暮らしていける”だけの油が注がれています。

溢れんばかりのめぐみです。

本当に神は素晴らしいお方です。

 

人がイエスを信じるとは、信じるところから新たにされて、その人生を生きるところに続いて、やがては至るべき地点に至るべき姿で至ることです。

 

イエスを信じる人生を生きるところに続く、とは、私が感性のままに表現しているまでですが、その間におとずれるめぐみについて、今日のみことばは語ってくれています。

 

クリスチャンにも、この部分に興味がある人が、実は多いのではないかと思うのですが、金を求めなくても、裕福な暮らしを求めなくても、ただイエスを信じることと、御国の到来、つまり自分自身を統治してくださることを求めることによって、必要は満たされますし、それ以上のめぐみが加わります。

そしてそのめぐみは、無限の神から出てくるのですから、無限であることも覚えたいと思います。