1 オバデヤの幻。神である主は、エドムについてこう仰せられる。私たちは主から知らせを聞いた。使者の国々の間に送られた。「立ち上がれ。エドムに立ち向かい戦おう。」

2 見よ。わたしはあなたを国々の中の小さい者、ひどくさげすまれる者とする。

3 あなたの心の高慢自分自身を欺いた。あなたは岩の裂け目に住み、高い所を住まいとし、「だれが私を地に引きずり降ろせようか」と心のうちに言っている。

4 あなたが鷲のように高く上っても、星の間に巣を作っても、わたしはそこから引き降ろす。―主の御告げ―

5 盗人があなたのところに来れば、夜、荒らす者が来れば、あなたは荒らされ、彼らは気のすむまで盗まないだろうか。ぶどうの収穫をする者があなたのところに来るなら、彼らは取り残しの実を残さないだろうか。

6 ああ、エサウは捜し出され、その宝は見つけ出される

7 あなたは国境まで送り返し、あなたの親しい友があなたを征服し、あなたのパンを食べていた者が、あなたの足の下にわなをしかける。それでも彼はそれを悟らない。

8 その日には、―主の御告げ―わたしは、エドムから知恵ある者たちを、エサウの山から英知を消しさらないであろうか。

9 テマンよ。あなたの勇士たちはおびえる。虐殺によって、エサウの山から、ひとり残らず絶やされよう。

10 あなたの兄弟、ヤコブへの暴虐のために、恥があなたをおおい、あなたは永遠に絶やされる。

11 他国人がエルサレムの財宝を奪い去り、外国人がその門に押し入り、エルサレムをくじ引きにして取った日、あなたもまた彼らのうちのひとりのように、知らぬ顔で立っていた

12 あなたの兄弟の日、その災難の日を、あなたはただ、ながめているなユダの子らの滅びの日に、彼らのことで喜ぶな。その苦難の日に大口を開くな

13 彼らのわざわいの日に、あなたは、わたしの民の門に、入るな。そのわざわいの日に、あなたは、その困難をながめているな。そのわざわいの日に、彼らの財宝に手を伸ばすな。

14 そののがれる者を断つために、別れ道に立ちふさがるな。その苦難の日に、彼らの生き残った者を引き渡すな。

 

オバデヤ書の背景を調べましたら、エドム滅亡預言とのことでしたが、その直接的原因となるのは、今日のみことばにもある通り、バビロンによるエルサレム破壊にエドムが事実上加担したことでしょう。

 

エドムは、イスラエル側ユダとの同盟関係を無視し、むしろバビロン側に立って破壊をながめていたのだと。

それを”ヤコブへの暴虐”と神は言われています。

 

ヤコブへの暴虐ということは、エサウはやはりヤコブとの和解の後も、ヤコブに対しての恨みは消えておらず、脈々とエドムに生き続けたということなのでしょうか。その辺ははっきりとしません。

 

私が思うことは、エサウを端緒とした遺伝的継承のようなものがエドムにおきており、それがエドム滅亡に至らせたのであり、それはもう避けがたい末路であったのではないかと思うのです。

 

遺伝的継承としたのは、それ自体は人間の感情とか工夫とかでは代えがたいものであるからです。

それが何かについて、顕著に現れたのは、やはりユダへの裏切りということになりますが、継承されてきたものとは、信仰のようで信仰ではないもの、神を軽視するという性質ではないかと思うのです。

 

先日、列王記のQTを続けてましたら、アハブ王というのが登場しました。

王政イスラエルの中でも最悪とされる王ですが、そもそも神を恐れない者で、異邦人の妻にコントロールされて偶像礼拝に国ごとのめり込ませ、偽物の預言者を大量にはべらせてそれらしく見せかけるというような宗教利用もしていました。

私がここから感じたのは、これはもう性質だな、ということです。

 

神を知らなかったわけではありません。

何度も立ち返ることが出来る機会がありながら、完全に立ち返らず、むしろその性質に立ち返ったのです。

 

また、イスラエルの初代王サウルも似たところがあると思います。

宗教らしいことはやってみせるのですが、そこには信仰がありませんでした。かっこつけのようですね。

サウルにも、アハブにも、いくらでも”あの時神に立ち返っていたら”というチャンスはあったはずですが、その性質の故、出来なかったのだと思うのです。

神に立ち返るという発想がそもそも出てこないとうことです。

 

エドムがエサウから脈々と継承されたものは、これと似た性質ではないかと思いました。

エサウは長子に与えられる神の祝福を軽視してヤコブに売り渡しました。

腹が減ったからと、ヤコブが作った食べ物と交換したのです。これ、もしかすると、冗談半分の軽口だったのでは、と思います。「長子の権利?ああ、それならやるからメシを食わせろ」というような。

しかしこのことが、イスラエルや世界の方向性に関係していくわけです。

神のことについて、真剣になれない、恐れない、形ばかりの信仰無き信仰、こういう性質がエサウにあったのではないかと思うのです。

 

そしてこの性質は、あのヘロデの時代まで続いたのですが、結局エドムの滅びは実現することになりました。

 

私は大丈夫でしょうか。

神を軽視していないでしょうか。

そこに罪の根源があるのではないでしょうか。

それに対する神の答えは滅びです。

 

しかし、仮に私がそのような性質を帯びたものであったとしても、人であるイエスが来てくださって、死んで復活されることにより、神が確実におられることが明確にされました。

 

このことは、やはり神による滅ぼしが実際にあることも証明していますが、神の愛とそれによる永遠のいのちへの結実を保証しています。

 

このことで、現代を生きている私は、性質によって神を信じたり信じなかったりとか、恐れたり軽視したりというよりも、意思とか理性によって、信じることを選び取るということが可能にされています。

それは、その神を軽視するという罪をも、イエスが身代わりとなって滅んでくださったことで、赦される道があることをもまた証明しているからです。完全に、選択となっています。福音は完成されているという、祝福にあずかっています。

 

だからあとは、信じるという明確な選択をすること。

それだけで、滅びの逆である生きる、神のおられるところで永遠に生きることが保証されるのです。

 

しかしそれでも、エドムが起こした同じ罪を、私が起こさないとは限りません。

兄弟の窮地にあって、手を差し伸べないなら、それは罪だと言われているも同然です。

兄弟愛には愛を加えよと教えられています。

何か悪い事をしでかしたのではなく、ただ「知らぬ顔で立っている」ことが、エドムが滅びに至った原因であることをしっかりと覚えていきたいと思います。