イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している、選ばれた人々、すなわち、
2 父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。
3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。
4 また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。
5 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに表されるように用意されている救いをいただくのです。
6 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければならないのですが、
7 あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。
8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
9 これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。
ペテロの手紙でのQTが始まりました。
わくわくする思いです。
これまで、多くのクリスチャンから聞いた言葉があります。
それは、「私の信仰のモデルはペテロです」というものです。
私もそうなんです。
まさに信仰のモデルで、今時分の信仰ステイタスはどこかを考えるとき、どの時のペテロだろう、という風に考えるんです。
ペテロという人格がそもそもイエスとどう接したのかについて、これはあくまでも私の現時点での見解ですが、ただの好奇心とか気合だと思います。
ほんの数か月前までは、平気で人を騙して金を巻き上げようと必死だったのに、イエスを信じると決めてから教会にも通いだして、いっちょ前なクリスチャン用語「祝福します」とか「めぐまれました」とか、そういう言葉を口にし出している新米クリスチャンがいました。私です。
イエスキリストに付き従ったペテロですが、彼が本当に信仰があったのかどうかについて、当初は怪しいと思っています。
イエスが弟子たちに「わたしのことを何だと思うか」という質問をされた時に「生ける神の子キリスト」と答えるのですが、聖霊に満たされてそう答えたとか、ペテロの素晴らしい信仰による正答とか、そのように習うのですが、私は、弟子の中で一番になりたいと思っていたペテロが、待ってましたとばかりに、いっちょまえに答えた気合の言葉だと思っています。そうとしか思えないのです。
本気で彼がイエスをキリストだと思っていたかどうか、ということです。
あの時点では、そうでもないと思うんです。
しかし、あの正答は重みがあることは間違いなく、人間ペテロがその方向性を宣言して、弟子たち、即ち福音を伝えていく者たちの中でも特別に見出されることになる、一つの要因となったのだと思います。
イエスは、神は、本物の信仰から出た言葉ではなくとも、喜ばれたのだと思うのです。子供を見るような眼差しを感じます。
やがてペテロは念願かない、ゲツセマネでイエスが祈りに出向く際、お供に選抜されます。
このことが、この時点でのペテロの想像をはるかに超えて、重要な瞬間となったことを、まだ彼は知らなかったのではないでしょうか。
ペテロにとっては、イエスのお気に入りになった程度のものです。一番弟子候補として選抜されてお供したのですから。
しかし、それから時間を多く経ずして、ペテロはイエスを喪失するという危機に直面します。
イエスが祭司長らに捕らえられて、裁きにかけられることになるあの場面です。
ここで、人間ペテロの心情が見えてきます。選抜された理由であるかも知れません。
弟子たちの中で唯一、危険を顧みず、連行されるイエスをこっそり追いかけていくのです。
これは、信仰ではなく、気合でもなく、ただお師匠イエスへの慕う心であり大好きな気持ちからの行動だと思います。心配だったんです。
ところがここで、あの立派な発言をしていたペテロがイエスを3度否むわけですね。
イエスのことは大好きだったけれど、信仰というほどではなかったこと、キリストであると本気で信じていたわけではなかったことを彼自身が思い知るところです。
そして、自分の情けなさに大泣きするのです。
その後、ペテロはついによみがえられたイエスと会い、宣教命令を受け、天へと昇られる姿を見て、気合とかではなく、変容し難い感情を超えた霊感がペテロを直撃します。
そして、イエスが宣言された通りに聖霊を受けます。
イエスの姿が見えなくなって初めて信仰者になるわけです。
この手紙は、聖霊を受けたペテロが、あの祈りのお供として選抜された者の役割を果たす中で書かれています。
冒頭句は賛美の言葉で埋め尽くされて、まさに正答と言える福音が述べられています。
8節は、ペテロは感慨深い思いで書き記したのではないでしょうか。
イエスは目には見えないけれど愛している。
今見てはいないけれど信じている。
ことばに表せない喜びに踊っている。
ペテロ自身のことだと私は思います。
迫害など苦しみにあっている教会に向けての手紙であることがわかります。
その苦しみは、選抜されていることによるものであることも、ペテロだからこそひしひしと伝わるのでしょう。
今日のみことばから得るものは、あまりに大きなものです。
福音です。
ペテロがどんなだったかを通して、私は自分にある希望を確信しています。
イエスを信じる者は、この世では馬鹿にされることもあります。
日本ではあまり迫害されないけれど、何かのきっかけで心無い言葉をかけられたり、仕事の機会を失したこともありました。伝道した後、友達も何人かは無くしました。
しかし、天に用意されていて、やがてイエスと共同相続すると言われる物は、どんな悲しみも苦しみも問題にならないほど素晴らしいものです。
色々と悩みもある毎日ではありますが、その相続人として選ばれていること、先に選ばれている喜びと、何よりも、イエスが大好きな者として元気に生きたいと思います。