1 ダビデ王は年を重ねて老人になっていた。それで夜着をいくら着せても暖まらなかった。

2 そこで、彼の家来たちは彼に言った。「王さまのためにひとりの若い処女を捜して来て、王さまにはべらせ、王さまの世話をさせ、あなたのふところに寝させ、王さまを暖めるようにいたしましょう。

3 こうして、彼らは、イスラエルの国中に美しい娘を捜し求め、シュネム人の女アビシャグを見つけて、王のもとに連れて来た。

4 この娘は非常に美しかった。彼女は王の世話をするようになり、彼に仕えたが、王は彼女を知ろうとはしなかった

5 一方、ハギテの子アドニヤは、「私が王になろう」と言って、野心をいだき、戦車、騎兵、それに、自分の前を走る者五十人を手に入れた。

6 —彼の父は存命中、「あなたはどうしてこんなことをしたのか」と言って、彼のことで心を痛めたことがなかった。そのうえ、彼は非常な美男子で、アブシャロムの次に生まれた子であった—

7 彼はツェルヤの子ヨアブと祭司エブヤタルに相談をしたので、彼らはアドニヤを支持するようになった。

8 しかし、祭司ツァドクとエホヤダの子ベナタと預言者ナタン、それにシムイとレイ、および、ダビデの勇士たちは、アドニヤにくみしなかった。

9 アドニヤは、エン・ロゲルの近くにあるゾヘレテの石のそばで、羊、牛、肥えた家畜をいけにえとしてささげ、王の子らである自分の兄弟たちすべてと、王の家来であるユダのすべての人々とを招いた。

10 しかし、預言者ナタンや、ベナヤ、それに勇士たちや、彼の兄弟ソロモンは招かなかった。

 

サムエル記の終盤と列王記の冒頭に記されるのは、ダビデの晩年と王位の移り変わりなのだが、アブシャロムに次いでアドニヤというダビデの別の子がまたしても謀略的に王位を狙っている様は痛ましいものだ。ダビデのことが痛ましいと思うのだ。

 

ダビデは元気が無いからと容姿美しい女性をあてがわれているのだが、バテシェバに関連した性的な罪によって神からの強い叱責と懲らしめを受けていることがあって、肉体関係を持つということはなかったのだと思う。

神を恐れていたというよりも、とてもそんな気にはなれないほどの心の痛みがあったのだろう。

 

じゃあダビデはなぜ断らなかったのだろう、と私は思う。

 

政治的な状況。子のアドニヤが野心を抱いてこうして父ダビデの跡目狙いで立ち上がり、それにあのヨアブと祭司の一人エブヤタルという重鎮がなびいている。

ダビデは、なされるがままじゃないか、とも思えるのだ。

 

ただこのことは、ダビデのなさけなさという現象ではなく、神の御心であるように思える。ダビデもわかっていたのではないか。

 

そもそもサウルから始まったイスラエルの王政は、民が求めたもので、それに神が半ば「ではそうしろ」と突き放すように王を与えられた形ではじまっている。

民は、霊的な指導者である士師、祭司が政治を行うことを嫌い、人間都合の統治を切望したのだろうが、そのことを神は良しとしていなかった、と私は推測している。

 

そして、神に最初に選ばれたはずのサウルは、あのように宗教者まがいの行動を信仰としていたばかりに、神から見放されるという最悪の状況に至った。

それでも王位にすがりつくという惨めを見せた最期であった。

 

ダビデもまた神に選ばれているのだが、それはサウルの次に選ばれたというよりも、サウルとのパラドックスとして存在し続けて、神の計算通りに王位に就いたように見えた。

ダビデが神にどれほど信頼し委ねる者であったかは、旧約聖書全体を眺めて見ても、スポットライトがひと際明るい気がするのだが、一方では人の弱さを持つ者であり、罪人して姿もまた目立つ。

 

そしてこのダビデの晩年期。

神への強い信仰がありながらも、罪に苦しんだ彼のこの世での営みの終わり頃。

ダビデは、なされるがまま、という姿だと私は思うのだが、これは、彼が全てを神に委ねた姿の片りんではないか、とも思うのだ。

 

それは、自分が王であることや、王政そのものへの閉口でもありそうだ。

まだ生きている親でありダビデ王を差し置いて自分が王になろうと企む2人の実子を目の当たりにし、しかも部下であったものまでその反逆者についていく。

 

王位という権威を巡って野心が引き起こされる様、この王政の空しさを、ダビデは身を持って知った人だろう。

 

だからダビデは・・・悪い言い方をすれば「なるようになれ」だし、信仰的には、全てを神にお任せする、という姿勢に至ったと。そんなもんではないか、と今日思った。

 

ここから学ぶべきところがある。

それは「おれ王になる」と、野心で権威を獲得していこうとすることの虚しさとか、不信仰に傾く危険が知らされている気がしてならないのだ。

 

そして、

”だから神は王政の結末にイスラエルの国家としての滅びを経験させたのだろうか”とか、

”だから神はサムエル時代の最後に、渋々、サウル王を任命したのだろうか”とかも思えてくる。

神の御心というパズルが少しだけ動いてつながるのだ。

 

例えば私は、会社の中では野心家になりやすい。

上に立ちたい願望などは全くないのだが、自分の給料を上げようと思えば、売り上げを上げるしかない→売上を上げるにはこの役員やらの言うことを聞いていたら無理、そう思えば、上から被せるように政治的な手法で自分の思い通りを成そうとするところがある。

それで、売上が上がって来ていたのなら、まあ、仕事上の道理は得ていることになろうが、それほどでもないから、私はやはり間違っているのだなあ、と感じる。

 

ダビデのように、なされるがままになる。

それでよいのかも知れない。

 

もちろんそれは、信仰や霊的になされるがままになるという話ではない。

 

霊的になされるがままにならないために、この社会でなされるがままになってみようか、そんな風だな。

とにかく、我こそと野心で立ち上がるようなことは、この際控えようと思う。